盛岡タイムス Web News 2012年 7月 1日 (日)

       

■ 〈もりおかの残像〉49 澤田昭博 「上田一里塚」

     
  @「蝦夷森の一里塚」(大正末・昭和初期頃か?)『盛岡写真帖』杜陵印刷より  
  @「蝦夷森の一里塚」(大正末・昭和初期頃か?)『盛岡写真帖』杜陵印刷より
 
   古墳巡りをする人たちを、コフンニストと呼ぶようです。であれば、今回は岩手の一里塚をすべて調べ上げたツカニスト星川龍司さんを紹介します。時季外れではありますが、「門松は冥土の旅の一里塚」というのがあります。この後に、一休禅師の歌で「めでたくもありめでたくもなし」とつづくようです。真偽のほどはわかりません。現代の「一里塚」は国や県の史跡に指定され保存されてはいますが、もはやその本来の役割を終えています。しかし、緑が丘・黒石野商工業会はこの一里塚をめでたいお祭りに仕立て上げました。平成2年の4月に第1回「一里塚まつり」を開催し、6月に史跡上田一里塚石碑を建立しています。以後毎年7月の第3土曜・日曜にアネックス・カワトク前で開催され、今年は第23回を数えます。あまたある全国の一里塚の中でも珍しいケースだと思います。

  徳川幕府は国内統一事業の一環として、街道沿い一里(約4`)ごとに土を盛った塚を築き、樹木を植えて往来の目標にするといった交通整備の基本政策を行っている。江戸日本橋を起点にして、東海道など五街道を定め、盛岡藩領内を南北に走る奥州道中(奥州街道)の一里塚は、慶長9年(1604年)頃の築造とされ、さらに接続する脇街道についても慶長年間にはほとんど整備されました。この上田一里塚は、奥州道中筋、盛岡城下鍛冶町(現在の紺屋町)の元標から4`北方の地点にあり、さらに北の小野松一里塚へと続いている。一里塚は、元来街道の両側に二基一対を築くことが原則ですが、都市化という開発の途上で多くは姿を消しています。写真@のように本来は一対であったアネックス・カワトク前の一基は、修道院の敷地内にあり現在までなんとか保存されました。

  現在の所在地は盛岡市緑が丘4丁目74番5ですが、旧地名では「蝦夷森」でした。写真を見る限り納得できる地名です。また、地図は黒石野の松並木と一里塚を描いています。郷土史家故佐藤勝郎さんが、文化年中の御領分内絵図を模写したもので、詳細は次回「松並木」にします。

  この地域に早くから住んでいた小向麗子さん(77)を取材しました。八戸からやってきた父の時代にこの地に住み始め、周囲に家は三軒しかなく、畑と酪農を営み厨川の森永乳業へ出荷していました。春先の道路はぬかるみ歩かれず、道路より高いところを通って仁王小学校まで通学しています。戦後、ダンプカーで砂利が運ばれ、朝鮮の方々が砂利を降ろし道路に敷き詰める作業をやることで、ぬかるみは解消したことを教えてくれました。

  昭和十年代の子どもの頃には、写真@の一里塚のようにまだ両側に一対あったといいます。「塚森」と呼び、塚の上に大木はなくササやぶだったので、冬には上からそりを滑らせ遊んでいました。また、子どもが幼稚園に入っていた頃、修道院のセシリアさんから畑仕事のお手伝いを懇願され、特別に出入りしていたとも言います。修道院側の一里塚には南部赤松のほか、こぶし・にが木など雑木も生えており、ササの刈り払い作業も行っていました。

  写真Aの一里塚には2本の南部赤松が写っています。最初は修道院の塀の内側に入っていました。松園ニュータウン造成に伴い昭和50年代、片側2車線の道路拡幅工事の際、塀の外側に出ました。いまこの巨木は姿を消し、五本の幼木が植樹されています。平成16年8月の台風21号通過により倒れてしまったからです。

  ところで、一里塚のスペシャリストといえば、松園在住の星川龍司さん(71)でしょう。15年の歳月を費やし現存する県内各地に分布する一里塚をくまなく歩いて調査し、写真を撮りまとめたものを平成18年に『岩手県の一里塚』で刊行しました。その後に調査漏れの箇所や新しく情報を得た一里塚を加え一年前『いわての一里塚』に上梓しています。星川さんは道路標識や路面表示など交通安全施設を設置する会社を経営していた関係から、旧街道で目にした一里塚や追分碑に関心をもち調査研究が始まったようです。追分碑の文字が読めないことから岩手古文書の会で学び、春と秋を中心に一里塚巡りをしています。

  岩手県内の街道で、左右に2基対で現在残っているもの51カ所、片方だけのもの47カ所を訪ね歩き、写真を撮影し、古老から聞き取り調査している。それだけに苦労話も多く、例えば小本・野田街道にある「大橋一里塚」は玉山村の教育委員会で資料を調べ訪ね歩いたがササやぶなどで分からず藪川まで3日通い自分で見つけたといいます。そこには20年前の古い朽ちた看板を発見し、確信したようです。調べた翌日には雪が降ったといいます。

  著書の表紙を飾る滝沢村巣子の岩手牧場内にある鹿角街道「菊塚一里塚」は、岩手山を背景にした美しい写真です。しかし、独立行政法人家畜改良センターの敷地内にあり防疫対策上立ち入り禁止になっています。調査とはいえ牧場内に入る時はあらかじめ許可が必要で、場合によっては許可が出ない時期もあるようです。消毒された服や長靴を着用し、調査・撮影しています。

  先に一里塚は本来の役割を終えたと言いましたが、いままた旧街道を歩く会が全国的にブームになっています。東海道や中山道など街道を歩く会の人々にとって一里塚は目標物そのものです。星川さんによれば、わざわざ九州から奥州街道を歩いている人にも出会ったといいます。『いわての一里塚』で取り上げられている写真は、日本道路元標である東京の日本橋のプレートをはじめすべて自分で撮影したというこだわりようです。すべての塚の位置を国土地理院発行の2万5千分の1地形図で示すなど、一里塚ファンにとっても格好の案内書になっています。


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