盛岡タイムス Web News 2012年 7月 4日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉288 伊藤幸子 「蛍の巻」

 声はせで身をのみこがす螢こそ言ふよりまさる思ひなるらめ  源氏物語

  夏到来、蛙の声が遠く近く、夜の更けるまでひびいている。さて、寝ようかと家中の明かりを消すと玄関のあたりがぼおっと明るい。ウン?と目をこらすとひとしきり点っては消え、また光る。ホタルだ!

  私はうれしくなって外にとびだした。立木の向こうに潤(うる)むように上弦の月がかかっている。そしてわがやの玄関のガラス戸の棧(さん)に、二匹のホタルがとまって交互に淡い光を明滅させている。それがけっこう明るいのだ。

  ああこれならば、いにしえの姫ぎみの面影が几帳(きちょう)ごしの螢の光に見えた場面も納得できると、私は寝るのをやめて古典の世界に思いをはせた。源氏物語は夕顔、玉鬘、螢、常夏(とこなつ)と、次々に魅力的な巻が展開する。

  源氏の君が、夕顔の生んだ玉鬘を養女として六条院に引きとったのは35歳の秋。かねて弟の兵部卿宮が玉鬘に思いをよせているのを知っている源氏はここで螢を使ってあざやかに恋の場面を演出する。原文では「宮は妻戸の間に、御しとね参らせて、御几帳ばかりを隔てにてちかきほどなり」と場面設定。そこに源氏の大臣(おとど)が「寄りたまひて、さと光るもの」を放たれた。姫君は驚き、扇で顔を隠されるがそのご様子はほのかな光をうけて「いとをかしげなり」と描かれる。さもありなむ、螢よ、黒髪よ、姫君よと心ふるえる行間だ。

  昨年12月創刊の週刊「源氏物語」絵巻はもう27巻を数える。「螢」の巻は25巻、目のさめるような美しい写真がオールドファンを楽しませてくれる。妻戸もしとねも几帳も一目瞭然、カラーで室内調度品も細密に説明がゆき届いている。「女性を訪ねるときは、まず妻戸前の簀子(すのこ)に坐って女房にとりつぎを頼み、許されると妻戸の間に入った」とあり、室内には空薫物(そらだきもの)をして芳香を漂わせるともある。

  私が持っている岩波日本古典文学大系の昭和34年月報に、塩田良平先生の「玉鬘」解説が旧かなで載っている。「ところで私どもの年齢になると玉鬘と源氏との関係がまことに面白い。源氏の恋物語は玉鬘の巻あたりから下り坂になり、受身の形となってゆく。そして最後の打撃は最愛の妻紫の上の死となって、彼は孤寂な心境にとり残されるのだが、今や人生の残照を浴びてゐる男の悲しい喜びがこの巻にうまくとらえられてゐる」との感懐が味わい深い。掲出歌は兵部卿宮の贈歌に応えた玉鬘の返歌。言うよりまさる思いが熱く瞬いている。
(八幡平市、歌人)


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