盛岡タイムス Web News 2012年 7月 12日 (木)

       

■ 〈岩手からのカナダ移住物語〉11「長嶺三姉妹」菊池孝育

 サダは明治16年から3年間、岩手師範学校に勤めた後、函館の私立遺愛女学校に転じた。その頃櫻井ちかは、夫明悳が函館の教会に牧師として迎えられたことに伴い、櫻井女学校を矢嶋楫子に譲り、函館女子師範学校で教壇に立っていた。サダは櫻井との縁で函館に移ったとされる。盛岡では大沢川原教会(現日本キリスト教団松園教会)に属し、若い教会員の中心となって活動した。

  明治21年4月、仙台神学校(後の東北学院)創立者押川方義の媒酌により、本多庸一(後の青山学院長、日本メソジスト教会監督)と結婚、本多の郷里弘前に移り、私立弘前女学校の教員を務めた。結婚を機にサダという名を貞に改めた。以後本稿は貞を用いる。

  明治23年7月上京、実母タミの面倒を見ながら、夫庸一の帰国を待っていた。庸一は結婚直後からアメリカに留学し、同年9月に帰国することになっていた。

  庸一は帰国すると日本英和学校(現青山学院)校主となった。貞は庸一の教育と伝道活動を陰に陽に支えることになる。このころ、ゲンとヨシはカナダ・バンクーバーに住んでいた。二人のカナダ行きについては、ヨシの結婚まで遡らなければならない。

  三女ヨシは明治15年4月、杉村濬と結婚した。濬34歳、ヨシ15歳であった。濬は外務省通商局から京城公使館勤務への転勤直前の慌ただしい挙式であった。ヨシは大柄ながら活発な女性であった。いささかおてんば娘の気配があった。数カ月前、濬が人力車に乗って長嶺家に求婚に訪問したとき、ヨシは庭の柿の木に登って、彼が門を入る前からじっと観察していたとされる。

  結婚後、濬は朝鮮に単身赴任して、ヨシは東京の留守宅を守った。明治17年9月28日、長男陽太郎が生まれていることから、母タミと姉ゲンが面倒を見てくれたに違いない。濬は安心して外交業務に専念していた。明治22年5月、夫濬は駐バンクーバー領事として単身赴任した。ヨシは懐妊していたので、その時は同行しなかった。濬の離日後、ほどなくヨシは次男欣次郎を出産した。そしてその年の9月、姉ゲンの同伴のもと、ヨシは欣次郎を抱いて太平洋を渡ったのである。長男陽太郎はもう5歳になっていて、講道館の嘉納治五郎のもとに預けられていた。陽太郎は幼少時より体が大きく、柔道、水泳に異能を発揮していたとされる。長じて彼は、東京帝国大学在学中に遠泳大会で優勝したこともあり、外交官時代には、講道館六段の駐フランス大使として同国の柔道振興に努めた。異色の外交官であった。

  ヨシ一行がバンクーバーに到着した時、帝国領事館はバラード街にあった。その頃の領事官邸の女中関根なかの回想である。

  「私は領事館から是非働きに来て呉れと頼まれまして、杉村領事の官邸にお世話になることになりました。杉村さんは肥った体格で温厚な君子と云った様な立派な紳士でした。奥さんは永峯(長嶺)ゲン子さんのお妹で背の高い美しい方でしたが、大層親切で上下の差別なく善く世話をなさいました」。


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