盛岡タイムス Web News 2012年 8月  11日 (土)

       

■  〈賢治の置土産〉275 岡澤敏男 疾風怒濤の3年間 

 ■疾風怒濤の3年間

  賢治は初期の羅須地人協会の構想を示す手紙を教え子の杉山芳松へ送っている。

  それは大正14年4月13日に発信したもので「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本当の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふ」と告げているものです。

  賢治は予告どおり翌年春に教師を辞職し、実家から2`離れた下根子桜にある別宅に移って自炊しながら羅須地人協会の準備にとりかかり、指導理念である「農民芸術概論綱領」を起稿しました。そして大正15年8月に地人協会を発足し、11月末より農村青年や篤農家に農民講座を開始している。

  11月29日に実施された講座は「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」「『化学ノ骨組』について」、昭和2年1月10日「農業に必須な化学の基礎」、1月20日「土壌学提要」、1 月30日「植物生理要綱 上」、2月10日「同上 下」、2月20日「肥料学要綱 上」、2月28日「同上 下」、3月中「エスペラント 地人芸術概論」となっており、「午前十時ヨリ午後三時マデ 時間厳守/資格ヲ問ハズ 参観モ歓迎/昼食御持参」という規定だったという。

  3月8日に盛岡高等農林学校別科生の松田甚次郎が羅須地人協会を来訪。賢治が甚次郎に「小作人たれ、農民劇をやれ」と教えたのはこの日の事で、甚次郎が郷里の山形県稲舟村鳥越に帰って賢治の教えを実践したことはすでにご承知の通りです。

  賢治の作品やメモには唯物論や社会主義に関心を寄せ、とくに労働農民党(労農党)稗貫支部とは人脈的にも縁が深かった。

  『春と修羅 第三集』一〇一六「黒土からたつ/あたたかな春の湯気が/うす陽と雨とを縫ってのぼる…きみたちがみんな労農党になってから/それからほんとのおれの仕事がはじまるのだ」(昭和2年3月26日)、また一〇五六「サキノハカという黒い花といっしょに/革命がやってくる/ブルジョアジーでもプロレタリアートでも/おほよそ卑怯な下等なやつらは/みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに/潰れて流れるその日が来る」(昭和2年5月3日)

  昭和2年に労農党稗貫支部が結成された際に貸事務所が無く困っていると、賢治が親戚の宮右所有の長屋の一軒(3間×1間半)を借りてくれたばかりでなく、羅須地人協会から机、椅子を持ってきて貸してくれたことや、昭和3年2月の第一回普通選挙に際して留守中の事務所の机に「謄写版一式と紙に包んだ20円」を賢治が密かにカンパしたことが戦後になって証言されている。

  賢治は昭和3年8月10日「稗貫地方は七月より旱天が四十日に及び、稲熱病の発生などの手当て・稲作指導・測候所への問合せに奔走、疲労困憊のあげくついに倒れる。この日より豊沢町実家の別棟一階に病臥、花巻病院の内科部長佐藤長松博士の診察をうける。

  肺浸潤。熱と汗に苦しむ。以後、四十日余、病床生活」そして「羅須地人協会は、一九二六(大正十五)年八月に発足し、一九二八(昭和三)年八月、…足かけ三年でおわる」(堀尾青史著『年譜・宮沢賢治伝』)と羅須地人協会の夭逝を告げているが、この足かけ3年間は賢治の生涯にとって初めての「本当の百姓」に生きた疾風怒濤の時間だったと思われます。

  ■詩篇〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕
       『春と修羅 第三集』より

サキノハカといふ黒い花といっしょに
革命がやってくる
ブルジョアジーでもプロレタリアートでも
おおよそ卑怯な下等なやつらは
みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに
潰れて流れるその日が来る
やってしまへやってしまへ
酒を呑みたいために尤もらしい波乱を起すやつも
じぶんだけで面白いことをしつくして
人生が砂っ原だなんていふにせ教師も
いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつらもそいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて
その中から卑怯な鬼どもを追ひ払へ
それらをみんな魚や豚につかせてしまへ
はがねを鍛へるやうに新しい時代は新しい人間を鍛へる
紺色した山地の稜をも砕け
銀河をつかって発電所もつくれ




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