盛岡タイムス Web News 2012年 8月 18日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉276 岡澤敏男 縄文の農民像

 ■縄文の農民像
  羅須地人協会は、大正15(1926)年8月に発足し昭和3(1928)年8月に終結した足かけ3年の短命だった事業に過ぎないが、それをドイツ文学史上に有名な一時期に比喩してなぜ《疾風怒濤の3年間》と称したのか、その理由を述べましょう。

  疾風怒濤とは《シュトゥルム・ウント・ドランク》の邦訳で、18世紀後半に若いゲーテら思想家や詩人たちが無味乾燥な啓蒙主義と冷たい形式一点ばりの理性主義に反対し、主観を強調し天才を賛美するドイツ文学の革新運動を興した、その文学上の一時期をシュトゥルム・ウント・ドラングと呼んだが、文学以外でも習俗を打破し行動する革新運動に対して敬称されることがある。羅須地人協会の事業はいかに短命であっても宮沢賢治の生涯より還元すれば、これまで身に付けた地人学と菩薩行信仰と人類平和を求める理想を習合して一体化した〈ほんとうの百姓〉の道を断行した、いはば修羅人生の迷路にけじめを付けた「革新運動」と年譜に銘記されるべき3年間だったのです。

  羅須地人協会発想の原点は「ほんとうの百姓」観念に起因している。「ほんとうの百姓」とは個人の意識を社会より宇宙にまで高めようとする観念に根を置く思想であり、世界のまことの平和を求める目的を共有する縄文の農民像が発想の根底に刻まれていたとみられます。それは所有権もなく天与(自然律)の農地を自由に耕すべき「小作農」であったはずです。「小作農」とは天与農地を小作する謂(いわれ)のことで、不在地主の土地を借地する旧弊の小作人とは異なるものと考えられる。賢治が松田甚次郎に「小作人たれ」と諭したときに言及した「日本の農村の骨子は、地主で無く、役場、農会でもない。実に小農、小作人であって、将来ともこの形態は変らない。不在地主は無くなっても、土地が国有になっても、この原理は日本の農業としては不変の農組織である」と述べた論拠にその観念(農地天与説)の一端をのぞかせているのです。

  ところが現実の農民は、遠い縄文の豊かな潤いのある生活とはうらはらに、何の表現もなし得ずに黙々と暗く労働する生活がうつったのでしょう。そこで賢治は「農民芸術概論」「農民芸術概論綱要」「農民芸術の興隆」(各論)を草稿し地人協会で講義しようとしたのです。なかでも「綱要」は地人協会の指導理念と考えられ、「序論」、農民芸術の「興隆」、「本質」、「分野」、「(諸)主義」、「製作」、「産者」、「批評」、「綜合」の八章と「結論」から構成され、例えば「おれたちはみな農民である。ずゐぶん忙しく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい」(「序論」)、「曾つてはわれわれの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きていた/そこには芸術も宗教もあつた」(「興隆」)、「なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ/風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」(「製作」)、「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう/おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであろう」(「綜合」)、「…われらに要るものは銀河を包む透明な意思 巨きな力と熱である…(「結論」)などと、賢治の視点は現実を超えて銀河系の光と影にまで達しているのを見る。まさに「ほんとうの農民」を目指す賢治の決意と自負が感じられる「農民芸術」の「綱要」と思われます。

  ■コラム・276
  小野武夫著『黎明期の農村』の序より抜粋
    大正12年4月・巌松堂書店刊

  田舎社会の問題に就いて議すべき事は数多くあらふけれども、詮じ詰むれば前代から承け継ぎ来れる今の有様を打破つて新なる方向に転進の途を求むることに帰一する。

  私が此著に於て取扱つてゐる事柄は真実に我小農の保護観念を基調として田舎社会の上に思究を試み、事態の進行に留意しつつ党人の反省を促し、学者、操觚者の猛進を勧め、施政の誤れるを糾し糾し、以てこれ迄社会的にも、国家的にも、また私経済的の上にも甚だしく冷遇せられて居る我小農民を社会の広居に持ち出さん為に素懐の一端を述べたものである。日本の小作農民も数年の前と今日とでは、否昨日と今日とでも、余程その思惟と活動の状況が違つてきた。小作農民のすべてが長夜の眠りから覚めたとは言えぬとしても、彼等の一部は確かに永い嗜眠から覚めかけてゐる。覚むれば動く、動けば何事をか為さずしては己まぬ人間の本然性を彼等小農達の群れの中にありありと見ることができる。(以下省略)




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