盛岡タイムス Web News 2012年 8月 23日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〉63 古水一雄 無題(通巻第52冊)

 通巻第五十二冊は、5月27日より6月19日までの日記である。そして5月27日は入院から66日目、待望の退院の日である。退院という一種の開放感からか日記はかなり饒舌である。

     
  無題(通巻第五十二冊)  
 
無題(通巻第五十二冊)
 

   いつもより早く眼がさめた、病院の朝も今日許(ばか)りなのだと思ふ、退院といふことハ目出度い筈なのだが、何となく残り惜しい氣がする、附添は殊にしめりがちであつた、
    西楼を幾びとなく上下して見た、病院生活も慣れれバ又愛着が起こる、嘗て入院した当時は、御退院と看護婦のののする(意:大声でいいさわぐ)声を聞いて自分ハいつだろうとあはけなく(意:ものたりなく)思ふたものだ、それが退院と成つた今はさしてうれしいものでないと思ふた、


  退院を迎えてうれしいはずなのだが、その退院を芯から喜べないのは、病室とはいえ2カ月間にわたって慣れ親しんだ場所から離れるということと、附添(付き添い)とは別れて暮らさなければならなくなるという思いが去来するからなのである。

   便所をかへつて来るとすぐにお手すましと手拭を持つて附添が出る、嘗て、山中に無口な老媼と住んでみたいと思つたことがある、我が附添ハ理想の無口な老媼であつた、風吹いて木の鳴る時、雨ふつて人来を絶つの時、市井の病室でハあるが山居のやうな静かさを感じたことがしば??あつた、
    この静かさには退院すると当分遇ふことが出来ない、かゝる老媼には或ハ永久遇ふことハでないのかもしれない、


  春又春の理想とする生活は無口な老媼(ろうおう)と人里離れた山中に暮らすという隠遁(いんとん)生活であるのだが、はしなくも入院生活がその境遇をかなえてくれたように思われたのであった。

   退院していゝかと院長のきいたら無理なことせんやうにね、労(つか)れたら俥にでも乗るやうにねといはれた、それから田屋(意:ここでは山蔭の別荘のこと)から通いますか本宅から通いますかといふ、田屋から通はしてと思つてあすといふたら、ちつと無理ですな併しそれも一つの運動になるからよございましょうといふた
    院長がいゝと言ふたといふので退院の支度をする、母が来た、いろ?? 荷造りする、荷造りしてみんな運んでしまつてあと運ぶのハ病人自身丈けと成る、片付かつた室内を見て今更のやうに附添がほろりとした、昼飯はうれしいようなかなしいやうな氣が交々至つて二ワンを漸く平らげた、飯くはんのかと附添にきいたら胸がつまつてくはれないといふ、附添は思ひの外な詩人であつた、そして母と笑談して居たら蔭でほろ??泣いて居た、人間の至情である、笑ふてハ居たが腹の底は自分もやつぱり悲しかつた
    退院祝いに看護婦に餅を御馳走せうといふて母が附添に買方を頼んだら、かえつてくる迄おげあれあつてくなすんな(意:おかえりなってくれませんように)といふて出て行つた、眼をしばたゝいて出て行つた、やがてかへつて来た、餅はあとから届けるとのことであつた、今日迄の拂いが十二円五十銭である、病院に居るのもこの拂いをまつ丈の間となつた、早くかへりたかつた、併し何となしに残り惜しかつた、母と三人話した、そして笑つた、やがて拂いが届いた、もう立たねばならぬ、北三号室ともいよいよお別れだ、
    自分より後れて母もかへつた、近所まで附添が送つてきたそうな、川原小路を行つたろうといふので自分の跡を逐ふたが、つい見えなかつたといふた、やがて思つた、病院に居たかつたのは附添の為めである、金銭上の附添なら病院は地獄に等しいものであろう、
    附添の親切を思ふ、思はじ涙がこぼれる、思ふほど泣いた、六十日間の別世界に住んだ、生別は死別より悲しい、アカの他人として逢つた、アカの他人として別れる、それが一種の悲哀である、


  2カ月以上にもわたる入院生活のなかで、親身になって世話してくれた附添への謝意と親愛の情が連綿と書きつづられている。春又春が理想の生活としていた山居住まいは、はしなくもこの病院生活でかなえることができたという思いも春又春にはあったようである。附添にしても日々身の回りの世話をしていくうちに他人とは思えないほどに情愛が深まっていったのであろう。

  春又春の退院後の通院は田屋≠ゥらと院長に答えているが、田屋とは、本来は本宅から遠い耕作地がある場合、耕作地近くに小屋を構えて寝泊まりし、耕作期間のみに住まった小屋のことをいうのであるが、盛岡地方では別荘の意味にも使われていた(一ノ倉則文編「南部盛岡藩辞典」による)。




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