盛岡タイムス Web News 2012年 11月 15日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉29 菊池孝育 吉田愼也5

 平山一郎による大陸時報の記事に戻る。

「一方公共事業にも尽くされた人で、永年スティブストン日本人漁者慈善団体長として活動された人で、その間、団体が二つに別れて争ったときにも、矢表に立ってその解決に寝食を忘れて尽力された。吉田さんはまた塩鮭業の途を開かれ、農業とともに多くの人々に職を与えて来られた」。

  スティブストンはカナダにおける日系漁民発展の拠点であった。戦前はバンクーバーのパウエル街(リトル・東京)に劣らぬ一大日系コミュニティーであった。現在も日系人の比較的多い地域となっている。

  明治21(1888)年にここに日本人が入植して以来、日系漁民の数は四千余名に達したこともしばしばであった。

  明治30(1897)年、日系漁民は相互扶助と日本人病院の維持管理を目的に「フレーザー河漁師団体」を結成した。そして3年後、BC州政府の認可を得て財団法人「フレーザー河日本人漁者慈善団体(後にスティブストン漁者慈善団体)」に改編した。当初は三千四、五百名の構成員でスタートしたが、法人となってからは、カナダ市民権を得た日系漁者に限ったこともあって、一千名前後の構成員となっている。彼らの家族を含めれば三、四千名のコミュニティーになっていた。

  愼也は明治36年にスティブストンにやって来て、5年後の明治41(1908)年には同団体の監査役に選任され、同団体には欠かせない有能な役員になった。26歳であった。読み書きはもちろん、英語ができること、従って時勢に明るく、情報収集には誰よりも優れていたことが登用の決め手であった。

  以後彼は付属病院監督、副団体長を経て、大正8(1919)年からは団体長を務め、昭和4(1929)年、時のバンクーバー領事と激しく対立して辞任するまで、20年以上も同団体を統率したのである。特に団体長を10年以上も務めた日系人は愼也を除いて他にいない。団体長は日本における漁業組合の組合長であり、スティブストンという日系コミュニティーの実質的町長でもあった。

  その後はスティブストン農産会社の社長、塩鮭、筋子等の日本輸出を手がけ、現地で財を成すことになる。

  「クリスマスやイースターには若い人たちを晩サンに招いて、日系人の将来などについて意見の交換をされたものであったがそれらの若い人の中から既に故人になった山本武氏、大津源二氏等があり、今スティブストンの元老である林林太郎氏、坂本卯之助氏がある。吉田さんは常に若い人たちに(、)人の世話をするなら徹底的にせよ。チャランポランの世話なら初めからしない方が良い。とさとされたことが今でも私(平山)の頭にこびりついて離れない」。

  愼也が世話して育てた二世の青年の中から、「黒潮の涯に」の著者で、日系社会の論客として知られた林林太郎、前述の平山一郎らが現れ、戦後の日系カナダ人の発展に尽くすのである。筆者は林氏の晩年、スティブストンのお宅を訪ね、愼也の生涯について貴重なお話を聞かせていただいた。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします