盛岡タイムス Web News 2012年 11月 17日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉289 岡澤敏男 「雨ニモマケズ」は手記か詩作品か

 ■「雨ニモマケズ」は手記か詩作品か
  2011年3月11日に起きた平成大津波(東北地方太平洋沖地震)は海外に大きく報道され被災者に巨額の義援金を贈ったばかりでなく、「雨ニモマケズ」が翻訳・作曲され中国や米国市民によって大合唱されたことがテレビに報じられました。外国の人たちが被災者再起を励ます歌詞に「雨ニモマケズ」を選んだのは、他と共生しようとする賢治の真意が真っすぐに被災者にとどくものと思われ違和感はみられない。だがこの「雨ニモマケズ」を戦時中の昭和17年に、大政翼賛会の文化部が「詩歌翼賛」と銘うつパンフレット「常磐木」第2輯に収録し、国策の〈滅私奉公〉に狡猾に利用したことなどは、死の影を意識して必死な覚悟で記した賢治の真意を泥足で踏みにじったばかりでなく、人々に賢治の人間像をゆがめる大罪を犯したことは、決して許されることではない。

  賢治が亡くなった翌年(昭和9年)2月、愛用したズックの大トランクの蓋裏にあるポケットから、両親と弟妹にあてた二通の遺書と黒表紙の手帳が発見されました。手帳には臨終二年間の「痛烈な自戒と自省、深刻な苦悶と悔恨、真剣な念願と諦観などに交じって、照る日曇る日の折々のさりげない戯書や戯画、楽しい思い出や苦しいロマンツェロなどもみられ」、単なる信仰的記録や文学的作品ではなく、貴重な一つの「人間記録」と小倉豐文氏(『宮沢賢治手帳 解説』)が述べている。そして、この手帳の51nから59nにかけて「雨ニモマケズ」の手記があることから、この手帳を「雨ニモマケズ手帳」と呼ぶことにしています。

  この手帳の原本(復元版)を見ると「非常に力強い筆意で法華信仰に邁進しようとの決意を記したところがあるかと思うと、同じ法華信仰ではあるが、弱々しい筆意で病苦退散の呪術的方法か記されたところがあり」(小倉豐文)、さらに筆意とは別に文字の乱れも随所に見られ、病床中での心情の動きがよく伝わってきます。そのなかで「雨ニモマケズ」は、ためらいもなく、はっきりした文字で記されて居り、一気に書き下したような趣があります。このメモがはたして「詩作品」であるのかどうか評価が分かれ、「私は明治以後の日本人の作った凡ゆる詩の中で最高の詩であると思っています」と谷川徹三氏は詩として賛美し、反対に「雨ニモマケズは、僕にとって宮沢賢治のあらゆる著作の中で、もっともとるにたらない作品のひとつであろうと思われる」と中村稔氏は詩として否定的な評価を下しています。これに対して「詩のかたちをとっているから詩として世間に普及しているが、賢治自身は己の深奥の願望と祈りを、人に見せるためではなく、おのれ自身に言いきかせるために書きとめたものと思われる」と草野心平は指摘し、「そもそも賢治自身にこれを詩作品とする意識があったかどうか、病床にあえぐ身の一つの祈りとして書きつけられたのではなかったか」と入沢康夫氏は詩作品とは見ずに「祈りの手記」と評価しているのです。私は小倉氏の「もし再び生まれて来ることあらぱ…」といった「きわめて何気ない気持ちから、たださらさらと書き記したものではないかと思う」といういう解釈に同感します。書きながら直したところ以外に後から訂正の一つもなく、例えば「ヒデリ」の「デ」を「ド」と誤記して訂正なかったのも、恐らくはそのためであろうと小倉氏は解釈しているのです。

  ■「雨ニモマケズ手帳」の発見(『宮沢賢治手帳 解説』より抜粋)
  この手帳の存在が知られたのは、文圃堂版全集刊行に先立つ一九三四(昭和九)年二月である。清六氏がその全集の為の浄書原稿を前述した倉庫に収めてあった賢治の大トランクに詰めて上京したのを機会に、草野氏の肝煎りて同月十六日「宮沢賢治友の会」の第一回の会合が新宿のモナミで開かれた。この会合には高村光太郎・永瀬清子氏をはじめ在京の詩人達が集まったのであるが、その席上で清六氏により浄書原稿と共に「雨ニモマケズ手帳」の原本が披露されたのである。集まった人びとは原稿の膨大さと共に手帳の珍しさに驚かされ、手帳は次きつきに人びとの手に廻され、その頁を操って「雨ニモマケズ」の手記に感動した。恐らく片仮名交じりの大きな字で、殆んど訂正もなくはっきり書かれているので、最も眼につき易かったからであろう。(以下省略)


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