盛岡タイムス Web News 2012年 12月 24日 (月)

       

■  紙齢1万5千号特集(別刷り) 

     
  啄木記念館の菅原館長、本社の大内社長、胡堂記念館の野村館長(左から)  
  啄木記念館の菅原館長、本社の大内社長、胡堂記念館の野村館長(左から)
 

 盛岡タイムス社は1万5千号記念に、「先人と拓(ひら)く岩手のあした」と題し、盛岡市玉山区の啄木記念館の菅原壽館長、紫波町の野村胡堂あらえびす記念館の野村晴一館長、本社の大内豊社長との鼎談を企画した。今年は啄木没後100年にあたり、来年は胡堂没後50年を迎える。本紙の1万5千号にちなみ、節目の数を縁に語らった。二人の文学を読み直し、ジャーナリズム、音楽、観光、震災など、テーマは尽きなかった。明治の勃興と、平成の復興の精神を重ねあわせ、文豪の作品に脈々と息づく郷土愛を確かめた。

  啄木と胡堂は明治30年を前後して盛岡中学の同窓で、文学的に共鳴する仲だった。在京で交友し、ともにジャーナリズムを志した。作品は詩歌と大衆小説に分かれたが、ともに国民文学として、世紀を超えて愛されている。

  啄木、胡堂が学んだ明治の盛岡は、戊辰戦争後の復興期の精神に満ちていた。

  菅原館長は「盛岡中学の歴史の中でも、当時は黄金時代と言われていたと聞いている。金田一先生、胡堂さん、及川(古志郎)さんは軍人だが、文学を通じて交流があった。そのほか政治、経済界で活躍した人を生んだ背景には、経済的に裕福だという背景がない中で、人を育てていくことが一番の命題という風土が育っていたのでは」と、時代を物語る。

  文筆の道を志した二人は、ジャーナリズムに糊口(ここう)を求めた。新聞社は当時の先端の情報産業だった。

  野村館長は、「中学時代の二人は俳句や短歌の会を作り、互いに文学の道へ進んだ。胡堂の場合は家が破産して学費が続かなくなり、従って中退することになった。どの仕事に就くかといった時には、やはり中学時代に親しんだ文字を書く仕事に就きたいというのが願いだった」と語る。

  胡堂は報知新聞社に入社し、記者生活で文体を鍛え上げ、幹部に出世した。啄木は函館日日など北海道の各社を転々とし、東京で朝日新聞社に入った。どの紙面にも才気を光らせたが、天分からか、勤め人に甘んじることはできなかった。

  菅原館長は「啄木文学に大きな意味があった。最後には朝日新聞社で朝日歌壇の選者をしていた。読むということと書くということは啄木の手紙がそうだし、全集の分量から見ても、啄木は大量の原稿を書いていた」と話し、歌人の労苦を思う。

  話は現代へ。啄木記念館、胡堂記念館とも、盛岡地域を代表する観光施設である。早世の啄木が日本の文壇に残した遺産は大きく、胡堂は生前から資産を企業や人材の育成に注ぎ、天寿を全うした。

  大内社長は「啄木記念館は盛岡を中心に知名度があるが、胡堂記念館は東京方面の人に知名度があるように感じている」と指摘する。

  野村館長は「若いころから苦労した胡堂は、最後は自分の財産は社会から預かったものという考えの中で、野村学芸財団を創設した(中略)。胡堂は人を育てるという考えを持っていた。理由は人生の前半は助けられることの方が多く、今の自分があるという考えを持っていた」と話し、作家の「親分肌」を今に伝える。

  菅原館長は「震災後、『ふるさと』という歌が日本中で歌われているが、啄木の『かにかくに渋民村は恋しかり思ひでの山思ひ出の川』。この気持ちは人間の本質にある、とても尊いものだ」と話し、「絆」に対する歌人の憧れを見いだす。

  そのうえで野村館長は、「ふるさと出身の偉人たちはみな、ふるさとを大切にしている方々。何かあったとき自分を奮い起こす、励ましてくれるのはふるさとだと思う。ふるさとが崩れてきているのは残念」と、現代に警鐘を鳴らす。

  大内社長は「啄木も胡堂もふるさとを思っている。人を育てるということは、人に報いるということ。それが地域の発展。人を育てなければ企業や地域の発展はない」と、教育の復興を説いた。


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