盛岡タイムス Web News 2012年 12月 27日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉35 菊池孝育 吉田愼也と郷古潔A

 郷古と愼也との親密な交際は幼少の頃から終生続いた。長じては、日本とカナダと太平洋を隔ててのつき合いであった。郷古は欧米旅行の途次、スティブストンの愼也を訪ねた。逆に愼也は商用で帰国したときは頻繁に郷古と会談した。このことは家人が証言している。

  水沢留守藩での序列としては、愼也の実家の家格が郷古の生家を凌いだ。吉田家は留守家御一家衆に次ぐ弐番着座であったのに比し、郷古家は大番組の番士に過ぎなかった。ちなみに、カナダ(アメリカ)に渡った留守家旧家臣の末裔の中で一番家格の高かったのは、准御一家衆である鈴木三男であった。次に位置するのは吉田愼也の先祖である。ことに吉田権太夫(愼也の曾祖父、無献齋と号した)は家老職を務めた。藩校立生館の創設者としても名高い。祖父の権兵衛も幕末に家老であった。維新後、権兵衛は主君宗衛の夫人伊予子と共に水沢小学校の助教を務めた。愼也の父源三は羅卒(警察官)であったと言われる。斎藤實の生家も吉田家とほぼ同格である。

  両家より二段階下がった弐番座御召出に内田盛、下飯坂兄弟の生家が位置付けられている。御召出以上は番頭や奉行等の役職に就くことがあったので、ここまでは上席家臣と言える。

  郷古家は大番組十五番であるからそう高い家格とは言えない。それでも二人が親しかったのは、郷古潔は幼いときから頭脳明敏で秀才の誉れが高く、愼也は家柄に関係なく彼を尊敬してやまなかった。郷古潔は愼也の実直さと包容力に引かれたと友人に語っている。愼也の度量の大きさはカナダでも定評があった。日系社会を越えて、彼と関わりのある白人社会でも、ミスター・ヨシダと親しみを込めて呼ばれ、一目置かれていたのである。

  郷古は東京帝大(法)を出た後、三菱財閥の各社に勤務して、昭和16年の太平洋戦争開戦時には三菱重工の社長に就任していた。愼也が抑留者交換船で帰国した昭和18年には、東條英機の内閣顧問として飛ぶ鳥を落とす勢いであった。従って吉田家関連の人々は、郷古の政治力によって愼也夫妻の帰国が実現した、と今でも信じ込んでいる。愼也が帰国後、通勤したとされる大崎あるいは新橋駅前の事務所というのは、郷古潔関連の事業所であった可能性が高い。

  戦後、郷古はGHQから第三次戦犯に指名され、A級戦犯として巣鴨拘置所に収監された。愼也は友人の身の上を心配した。幸い養女清子の夫松崎進は東京裁判における連合国側通訳官であった。愼也は松崎を通じて、郷古の人となりを連合国側に訴え続けたのであった。訴えが奏効したかどうか定かではないが、郷古は出所後公職追放処分で済んだ。松崎夫妻は東京裁判終了後、カナダに帰国してバンクーバーに住んだ。

  筆者は平成7年、松崎宅を訪ねて取材した。

  BC大学に近い丘陵地にある瀟洒(しょうしゃ)な住宅であった。松崎進は既に故人となり、清子一人で取材に応じてくれた。2時間ほど対談したが、愼也夫妻のエピソード、北鎌倉の堂面豊信味の素社長宅のこと、郷古との交友録など、多方面に渡った。当時めんこいテレビがその様子をニュースで放映している。


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