盛岡タイムス Web News 2013年  2月 20日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉321 伊藤幸子 長谷川等伯

 画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ
                                  吉川宏志
                       「角川現代短歌集成」より。

 「雨だった。長谷川又四郎信春(等伯)は草鞋(わらじ)のひもをきつく結び、古ぼけた蓑(みの)をまとった。上背は五尺八寸近い長身なので蓑をまとうといっそう大きく見える…」これは安部龍太郎さんの直木賞受賞作「等伯」の書き出しである。「なんでも描いた、なんでも描けた」マルチ画家の上下巻、カバーも装幀も国宝「松林図」の重厚さに彩られて身がひきしまる。

  昨年暮れに、敬愛する読書家の友人にすすめられていたがようやく正月明けに購入、すでに8刷と版を重ねている。それが今期直木賞を受賞、さすが友人の炯眼(けいがん)に驚いた。「文藝春秋」3月号(2月10日発売)では「等伯の岩絵具」と題して安部氏の巻頭随筆が、四百年前の絵師に直接取材しているような臨場感を抱かせてくれる。たとえ史料が少なくとも残っている絵に向き合えば本人の実像にたどりつけるという述懐に納得した。

  また同誌「この人の月間日記」には、清水寺の森清範貫主さんの1月17日の項にひきつけられた。「安部龍太郎氏の『等伯』で思い出したのだが、等伯の息子久蔵が絵馬〈朝比奈草摺曳(くさずりびき)図〉を清水寺に奉納したのが観音縁日の天正二十年卯月十七日であった。久蔵二十五歳の時の作。現在重要文化財に指定されている」とある。清水寺は寛永六年に全焼したがこの絵馬のみは残ったと伝えられる。

  信春は天文8年(1539)能登七尾(石川県七尾市)に生まれ、幼くして染物屋であり絵仏師の長谷川宗清の養子になる。生家奥村家も養家も法華宗(日蓮宗)の熱烈な信者で、信春も数多くの仏画を描き、26歳ごろの「鬼子母神十羅刹像」は哀切だ。図録で見る本像は顔料もはげておぼろだが、抱いている赤児の横顔と両腕、手指のふくらみがみずみずしい。

  信春から「等伯」と号するのは天正17年、51歳のころ。戦国時代のまっただなかで、きわめてわかりやすいヒーローが続々登場。信長、秀吉に見る能や茶道、絵画芸術の熟してゆく過程、為政者と芸術家との相剋(そうこく)に息をのむ。

  作中、堺の日メiにっしん)上人尊像を描く場面がある。等伯は珍しく下絵に10日もかかった。「描けないからではなく、描き終えるのが惜しいのである。日モフ求道心と対話しながら尊像を仕上げていく至福の時間を終らせたくないのであった」と心情を吐露させる。絵筆を持つ画家とそれを文章力で再現する作家。まさに「読み終えるのが惜しい」と叫びたい一書である。
(八幡平市、歌人)


 


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