盛岡タイムス Web News 2013年  2月 21日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉42 菊池孝育 日系人の懸念2

 1949年までの日系カナダ人の歴史は悲惨の一語につきる。日本からカナダへの移民は、1877年に始まり、以後、漁業を中心に着実に増加していく。同時に、日本人排斥運動も激しさを増すようになる。再々述べたように、根底には人種的偏見があった。当時のヨーロッパ系人(コーカサイド)は、東洋人(モンゴロイド)は劣等民族であるとみていた。特に日本人移民に対する偏見と差別にはすさまじいものがあった。

  彼らの日本人評は、薄汚い、ふしだらだ、排他的で非協調的、そして好戦的だなど、時の日本人移住者の悪印象に由来する。もともと人種的偏見を持っていたので、一層歪んだ日本人観となり、差別の根拠となった。

  日本人移住者は、カナダ社会に受け入れられようと、劣悪な労働条件のもとで懸命に働いた。しかし、どんなに努力しても、参政権をはじめ、市民としての正当な権利は一切認められなかった。映画館に入っても、壁ぎわの立見席であり、市民プールでは午前10時前でなければ入れてもらえなかった。このような公然とした差別のほか、日系人には日用品を売らないとか、口をきかないとか、嫌がらせの類いは枚挙にいとまがないほどであった。

  1941年の太平洋戦争勃発は、日系人の立場を一層困難なものにした。西海岸のすべての日系人は、なけなしの財産をただ同然で没収され、内陸部のゴーストタウンに強制移動させられた。市民としての一切の権利と自由を剥奪されて、囚人同様の収容生活を送ることになる。

  1949年になって、やっと市民としての権利が保障されるようになった。それでも相変わらず、偏見と差別の不当な障壁はなくならなかった。むしろこの時から日系人によるリドレス運動「人間としての権利回復運動」が始まったのである。粘り強い運動は、1988年のマルルーニー首相による「長年の日系人に対する不当な扱いに対する公式謝罪」として結実したのである。なんと差別撤廃に、百十年も要したのである。

  やがて、血のにじむような、長く地道な努力を重ねながら、日系人はカナダ社会の中で「誠実で穏やかなカナダ人」と定評を受ける存在になる。

  カルガリー近郊レスブリッジに住むOさんは次のような感懐を述べたことがあった。

  「私たちは、他の民族とは争わず、目立たないようにひっそりと努力してきました。最近になって、やっと信頼されるようになりました。だが気に掛かることがあるんですよ」。彼の懸念は次のようなことであった。

  日本の商社が、カナダの農水産物を買いあさるために、物価が高騰して、新たな日本批判が起こっていること。それに日本からやってきた若い人たちの勝手気ままな行動が、カナダ社会の批判の的になっていること、などであった。

  「ホームステイ先で平気で長電話する。家族のだんらんを避けて自室にこもる。自室の掃除はしない。アサシャンでバスルームを独占する。外に出ると金遣いが荒い。子どもたちに悪影響を及ぼしている。もう日本人学生はお断わり、というカナダ人家庭が増えています」とOさんは結んだ。Oさんは地元の州立短大の教員を定年退職した二世である。これは1991年の取材時だったので、現時点では多少、世情は異なっている。しかし、営々として築いてきた日系人の信頼を、心ない日本人留学生、旅行者によって崩されるのではないか、多くの日系人の共通の懸念であることに変わりはない。

 


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