盛岡タイムス Web News 2013年  3月 14日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉45 菊池孝育 鈴木三男と吉田慎也

 カナダにおける鈴木三男の足跡は大正10年頃からぷっつりと消える。たぶん体調不良から帰国したものであろう。一説には、吉田愼也が商用で訪日した折、三男を日本に送り届けたとされる。

  愼也と三男はかなり親しい友人関係であった。話し下手な愼也は、三男を代弁者に頼むことが多かった。ことに三男が加奈太新報に勤めていたときは、何かにつけ、三男の筆と弁舌をもって、愼也と漁業者の意見を代弁した。

  バンクーバーの日本人コミュニティーのボスであった山崎寧が「加奈陀日本人會」を作ろうと動き始めたとき、山崎寧の不純な野望に反対した愼也は、三男に創立反対演説を頼んだのであった。スティブストンの漁者団体、つまり日系漁業者全体が反対の立場であった。かつて山崎寧もスティブストンの漁業者の一人であった。であるのに、バンクーバーに居を移してからは日系社会の実権をスティブストンからバンクーバーに移そうと画策したのである。バンクーバーに住む日本人は300人ほどであったのに対し、スティブストンにはその8倍以上の、ほぼ2500人もの日系市民が住んでいた。

  三男は愼也の期待通り、日本人会創立準備会で熱弁を振るい、準備会を流してしまった。

  三男はなめらかな東京弁を駆使して、聴衆を引きつける術を持っていた。逆に愼也は終生、東北弁が直らなかった。

  次は林林太郎の思い出である。

  「愼也さんが、たまたまスティブストン漁者慈善団体事務所(愼也が長年団体長を務めた)に来ていて、帰り際、若い事務員に『ズンドウサ呼んでくれ』と言った。事務員は『ハァ、誰、誰を呼ぶんですか』と聞いた。愼也さんはすかさず『ズンドウサ!』と大きな声をあげた。事務員はそれでもキョトンとして『ハァ、誰、誰を呼ぶんですか』とまた反問した。愼也さんは今度は英語で『コール・ア・タクシー・フォ・ミ』と叫んだ。愼也さんがタクシーで帰宅した後、事務員たちはその時のやりとりを思い出して爆笑した。すると片隅でそれまで黙っていたテンニング爺さんが『愼也さんの東北弁を笑うとは何事だ。あの人は真面目に喋れば喋るほど訛りが強くなる。真面目な人には真面目に応対するものだ。あの人の英語はカナダの日本人の中でワシの次にうまい』と真面目な顔で言ったので又爆笑が起こった。確かに爺さんの英語は素晴らしかったが、愼也さんを自分の次とぬけぬけと評したのがおかしかったのだ。愼也さんの東北弁は本当によく分からなかったものだ。私たち若者は良く愼也さんから説教を受けたものだが、半分も理解できなかった。二世の若者たちは『英語で説教してくれた方が解り易いのに』と陰で言ったものだった」

  テンニング爺さんについては後述する。

  さて、三男の話に戻る。彼は帰国後、水沢に住んでいたか、東京近辺に住んでいたか定かではない。三男は東京弁であったという事実から、実家は東京に移っていたのかも知れない。明治維新後、南部藩の上級藩士はほとんど東京に移住した。水沢留守藩でも富裕藩士は東京に住んでいたようだ。下飯坂家も東京に転居していた。愼也の実家の吉田家は、留守家上級藩士の体面を保つためと、多くの子弟を養うために、家計には余裕がなかったとされる。東京に転居するなど考えられなかった。

  その後、三男は日本にあって、愼也の求めに応じて郷里の若者を、特に柔剣道の猛者をスティブストンに送り続けた。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします