盛岡タイムス Web News 2013年  5月 16日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉54 菊池孝育 後藤忠治A

 後藤文治には二男二女があった。長男文五郎は英名Bill、次男利秋はJackであった。長女文恵もカナダで生まれたが、後日本で結婚したので英名は不明である。次女米子はMayであった。後藤家ではこの米子の婿捜しをしていたのである。彼女は小柄でぽっちゃりした、かわいい娘であったそうである。忠治の7歳年下に当たる。

  昭和12年(1937)、カナダのハイスクールを出たばかりの米子と、増淵で結婚式を挙げた。米子の父文治も帰国して出席した。カナダまでの船旅が新婚旅行になるはずであった。ところが忠治に召集令状が舞い込んだのである。忠治は断腸の思いで出征した。満州から北支、中支へと転戦した。そろそろ除隊して帰国の時期か、と期待した途端に、太平洋戦争が勃発した。憧れていたカナダは敵国になってしまった。何のために結婚したのか、忠治は天を仰いで嘆息した。

  運良く生き延びて終戦を迎えた。昭和21年、無事復員した。義父文治はカナダに帰国できないまま、終戦の年、増淵で他界していた。米子の姉、文恵を除く男の兄弟はカナダに残ったままであった。彼らの安否を気遣いながら増淵で芋畑を耕し、子作りに励んだのである。おかげで一姫二太郎に恵まれた。

  昭和32年、待望の渡航許可が降りた。忠治一家は、やっと、最後の移民船氷川丸で渡加した。その氷川丸は、今は横浜港に係留されて、歴史的建造物として一般公開されている。

  念願のカナダに渡った忠治一家はバンクーバー郊外サーリーで、農業を営んでいた義兄の家にいったん落ち着いた。その時、忠治の長男は小学校4年生であったが、サーリーのエレメンタリースクールでは一年級から始めることになった。次男は1年生だったので2人は同級スタートとなった。ちなみに長女は4歳で就学前であった。

  翌33年、カムループスのホップ農場に職を見つけ、一家は転住した。さらにその翌年、運良く大手の製材会社に雇用され、65歳の定年まで働いた。その間、3人の子どもたちは皆、大学を出て独立した。

  「最初の頃は英語が分からなくて苦労しました。工場で働いていたとき、上司が怒っているのか、褒めているのか、皆目見当がつかないのです。休めと言っているのか、働けと言っているのか、も理解できないのです。聞こえないふりして、真面目に働きさえすれば間違いない、と思っていました。それでも、分からない言葉は、たばこの裏ぶたにカタカナでメモして、帰宅後、妻や子どもに教わったものでした。つらいことも多々ありました。私のように小柄の男でも、双葉山より大きい白人と同じ力仕事をしなければならなかったことです。それで無理して働いて、指を失ってしまいました」

  よく見ると、彼の左手は親指と小指だけで、他の3本は根元からない。

  「うれしかったことは、1964年ころ、岩手県国際交流協会から感謝状を頂いたことです。それと好きな盆栽を楽しみながら、余生を送れることです」

  カムループス市の盆栽同好会の会長を長年務めた。同市の日本庭園造りに貢献したことで、市民感謝状を受けたという。

  「今は妻と二人きりです。この国では当たり前のことです。カナダで生活できて、とてもハピーです」


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