盛岡タイムス Web News 2013年  5月 23日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉55 菊池孝育 小野寺繁治

 この人も東磐井郡藤沢(現一関市藤沢町)の出身である。大正10(1921)年のカナダの記録によれば、

  「君(小野寺繁治)は巖手縣東磐井郡藤澤村に生まれ、雄図を懐いて海外に渡航せるは明治四十一年十二月なり」

  となっている。県人としては早い時期の渡航である。経歴を見ると、他の藤沢出身者とはいささか異なっている。たいていの場合、藤沢からの渡航者は、隣村の宮城県登米郡の人たちと同行して渡加し、フレーザー河流域で鮭漁に従事した。バンクーバーに上陸したあとは、リッチモンド、ニューウエストミンスター、デルタなどの地域で働いたのである。

  しかし小野寺繁治の場合は違った。同行者もいなかったようである。明治39年の「密航船水安丸」に刺激を受けて単独渡加となったものか定かではない。

  「美府(ビクトリア)上陸後直にゴラヘルドに於てスタンプ起しに就働すること数月、ボスと衝突して辛うじて晩市(バンクーバー)に出で、日加用達會社CPR鐵道メヂシンハットに就働せしが罷業(ひぎょう)の為め労銀を得るの道なく、具(つぶさ)に艱苦(かんく)を嘗(な)む」

  ゴラヘルドは地名か、農場名か不明である。「スタンプ起し」は巨木の切り株を堀り起こして、土地を平坦(へいたん)にならす作業である。原生林を切り開いて農地を造成し、道路を開削するためには不可欠の作業であった。開拓時代には重機がなかった。労働者がつるはしとスコップだけで行った重労働であった。ボスと衝突したのは、多分労働条件が契約と違っていたためと推測される。当時は甘言で釣って、劣悪な就労を強いるボスが多かったといわれる。

  日加用達会社は、各地、各種の労働キャンプに労働者や物資を供給するのを業務とした。CPRはカナダ太平洋鉄道である。小野寺は日加用達会社のあっせんで、CPRのメディシン・ハット工事現場(キャンプ)で働いていたものであろう。ところが罷業すなわちストライキが起こり、収入の道が閉ざされてしまう。当時、鉄道工事、炭坑などではストライキが頻繁に起こった。賃金の引き上げ、劣悪な労働環境の改善が罷業の要求であった。メディシン・ハットはアルバータ州のレスブリッジに近い町である。現在は人口6万を超える中都市になっている。「後ムースジョに走りショップに入りしが、幾許(いくばく)もなくして再び晩市に出で、翌年三月佐野ギャングに入りアルバタ州マクラードに来りしも、就働の途なく藤川二郎君の斡旋によりて漸く石炭下しに従へり」

  ムースジョはサスカチュワン州のレジャイナに近いMoose Jawのことである。はるばると移動したものである。ここで店員を務めたものか。そしてまたバンクーバーで職を求めたのである。佐野ギャングは佐野という人がボスの労働チームである。佐野組と言った方が分りやすい。佐野組に入っても相変わらず、就労の機会に恵まれないまま、またアルバータ州に逆戻りして、マクラード(マクロードMacleod)に至るわけである。マクロードは、比較的日本人の多く住む町、レイモンドの近郊である。レイモンドには、今でも五十人以上の日系人が住んでいる。小野寺は紆余曲折を経ながら、マクロードに定住して成功することになる。
 


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします