盛岡タイムス Web News 2013年  6月  6日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉57 菊池孝育 小野寺繁治B


  「而して一年後加茂君所有の権利全部を買受け、漸次(ぜんじ)経験を積むと共に白人間の信用を博し、大正七年二月に至まで、星を戴いて出で月を踏んで帰り、只管(ひたすら)艱難辛苦(かんなんしんく)を嘗め漸(ようや)く確固たる地盤を築き(続)」

  現在であれば、乏しい資力で独立する場合、金融機関からの借り入れなどの方策が考えられるが、当時の移民社会では移住民の信用度はゼロに等しく、結局は資金を出し合う共同経営の形態を採らざるを得なかった。そして経営が軌道に乗った段階で、どちらかが事業の継承者になり、他方は応分の資金を得て、他に事業を求めるか、現金を持って帰国するかの道を選んだのである。バーノンの佐々木辰五郎の場合は、千葉孟から得た半分の権利に相当する現金を抱いて帰国した。加茂の場合も帰国したと考えられる。

  当時の移住民はほとんどが出稼ぎの意識で海を渡った。まとまった金を得たらさっさと帰国するというのが、日本人移民の本音であったと言って差し支えない。

  原敬が外務省通商局長時代に手掛けた「移民保護規則」でも、「第一条/本法ニ移住民ト称スルハ永住スルト否トヲ問ハス総テ労働ヲ目的トシテ外國ニ渡航スル者ヲ謂フ」となっていて、出稼ぎ移民を公認していたのである。むしろ千葉孟のように当初から「カナダの百姓になる」ことを目的とした日本人移住民は少なく、「できれば大金を握って故郷に錦を飾る」との意識の移住民が大半であった。明治、大正時代の日本人移住民は出稼ぎ型移民が多かったことが、カナダ政府及びカナダ市民の顰蹙(ひんしゅく)を買ったのである。

  小野寺も千葉と同様、カナダの百姓たる目標の下に、朝暗い内に畑に出て、夜暗くなって帰宅するという、典型的な東北農民の生活をアルバータで実践した。

  「(承前)土地三百五十一英加を購入し、馬匹農具其他一切を完備し、農業の傍ら尚豚五十頭を飼育し、此間機会ある毎に家畜の売買をなし、目下同地方にありて白人支那人を対手とし、事業着々として盛況に向ひつゝあるもの悉(ことごと)く是れ君が多年の勤勉と刻苦との結晶ならずんばあらず。蓋(けだ)し拮据(きっきょ)経営一日も寧処(ねいしょ)せず、営々孜々(しし)絶えて苦色なき所、黄熟したる美果は人の来りて採取せんことを待てり。奮励せよ、努力せよ」

  土地351英加(エーカー)は約143町2反歩に相当する。カナダに上陸して11年ほどでこれだけの土地を手中にしたのである。筆紙に尽くし難い努力と忍耐の成果であったことは間違いない。

  記録の中に、「苦色なき所」との文言がある。苦色は、くしょく(くしき)、あるいはにがいろと読むべきか、筆者には判断できない。読者のご教示を乞う次第である。

  小野寺の足跡は、他の岩手県出身者に見られないほど広範囲に渉っている。BC、アルバータそしてサスカチュワンと三州を跋渉(ばっしょう)し、就いた職種も多岐にわたる。異国で異民族に混じって、大規模な農業経営を展開できたのは、拮据経営一日も寧処せず、孜々として奮励努力したからだけではないと考える。彼には人に優れた冷静沈着な洞察力、剛胆な開拓者精神が備わっていたことと理解される。


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