盛岡タイムス Web News 2013年  6月  21日 (金)

       

■  〈大連通信〉125 南部駒蔵 大連京劇劇場─旧東本願寺


  京劇は中国を代表する伝統文化で、日本の歌舞伎に近い。大連にはこの京劇の劇場がある。といっても京劇のことを紹介しようというのではない。この京劇の劇場が日本統治時代、東本願寺であったことを紹介したいのである。お寺が劇場になるというのは信じ難い話だが、事実である。お寺として使うにも僧侶もいなければ、信者も、檀家もない。取り壊すには惜しい立派な建物である。いろいろ議論した結果、京劇の劇場として活用しよう、ということになったのだろう。

  この京劇劇場に関して、それ以上に驚くことがある。ここには、日本に帰国できない位牌(いはい)や遺骨が幾万と眠っているというのである。

  産経新聞の2005年4月3日から5日にかけての「ニッポンの還暦」という記事に、そのことが紹介されている。以下は、主にその記事による。

  終戦を国外で迎えた日本人は軍人、民間人合わせて660万人いた。そのうち127万人が葫芦(ころ)島や大連から帰国した。当初、大連港で引き揚げが行われたが、大連港は使用禁止になり、アメリカの仲介により、国民党の支配していた遼寧省錦州(同じ遼寧省だが、大連市の「金州」とは違う)にある葫芦島から帰還した。

  民間人は身ひとつで日本を目指したが、途中、略奪や飢えに遭い、多くの人が犠牲となった。大連では難民生活が長くなり、チフスが流行、数多くの死者が出た。大連での最初の引き揚げは1947(昭和22)年3月30日で、恵山船など76隻の帰国船に分乗し、20万4千人が長崎、佐世保などに到着した。2年半かけて23万人が帰国した。大連は敗戦時の日本への帰国の重要な年であった。大連港が使用禁止となり、葫芦島から帰国した引き揚げ者は百万人を超えている。

  大連の東本願寺は、25(大正14)年に京都の東本願寺が建立したものである。引き揚げ者は遺骨を持ち帰ろうとしたが、船に持ち込める荷物は制限され、遺骨を手放さざるを得ない人が多かった。850軒の檀家を持つ東本願寺は、納骨堂の遺骨を引き取りに来るように連絡したが、一部を分骨してお守りに詰め替えて日本に持ち帰り、残りの骨は、お経を上げて本堂の地下に埋葬した。また、それとは別に本堂脇の東西の岩山にあった防空壕に風通しがよくなるように棚を作って船に持ち込めない遺骨や位牌を安置した。こうして後者だけでも遺骨数千柱、位牌2万柱が埋葬されている。

  これらの事実を知っている人々は中国に働き掛けて大連京劇場の発掘作業を始めるべくさまざまな努力をした結果、許可が下りた。しかし、いよいよ発掘作業に取り掛かろうとしたところ、中国側から「国民感情に配慮している」という理由で拒否してきた。

  遺骨に関して広くいえば、旧ソ連や太平洋地域から120万の遺骨を帰還させたが、中国からはわずか1420柱、それも中国側が保管していたものや、工事現場でたまたま発掘されたものに過ぎないという。

  記事の結びの言葉が強く印象に残った。

  「(遺骨を)置いてきた人を責めてはいけない。引揚者だけじゃなく、日本人全体の忘れ物。取り戻さなければ、戦後は終わらない」

  =おわり=(岩手医大元教授)


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