盛岡タイムス Web News 2013年  8月  8日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉66 菊池孝育 太平洋戦争直前の岩手出身者3


 千葉源市(Vernon, B.C.)はバーノンで農業に従事していた。バーノンは、地味は肥沃で、気候は温暖なため、果樹、野菜の栽培に適していた。明治30年代から、かなりの日本人が入植していた。源市は、既に述べた千葉孟、猛親子と親しく交わっていたようだ。不思議なことに、この人名録には千葉親子は収録されていない。いずれにしても源市は、当時帰国していた千葉伍市(既述)の縁者と考えられる。従って東磐井郡出身となるであろう。

  藤澤貞代(289 E. Hastings St. Vancouver, B.C.)はバンクーバーに住んでいた。住所のヘイスティングス街は、日本人の多いパウエル街から2ブロック離れた東西の通りである。番地も二百番台であるから日本人街とは指呼の間であった。姓からして、水沢出身の藤澤金太郎の縁者と思われる。人名録に登載される女性は独立して生計を営む自立者である。商店でも自営していたものであろうか。

  彼女は以前、スティブストンのモンクトン通りに住んでいた。その時、既に寡婦だったようだ。電話(47M)も取り付けていた。バンクーバーに移り住んだ事情は不明である。

  バンクーバーはメーン・ストリート(南北の通り)を挟んで東方にE(East)を、西方にW(West)を付す。番地もメーン・ストリートを起点にそれぞれ東西に100番台、200番台と延びていく。従って、番地を見れば、メーン・ストリートからのおおよその距離が分かる。

  昔からダウンタウンに近いメーン・ストリート近辺は、中国系の人々が住んでいた。日本人移住者も、容姿や肌色の共通する中国系に親近感を抱いたことから、チャイナタウン周辺に住み着いた。メーン・ストリートに近いパウエル街が、日本人街として形成されたゆえんである。

  細川與一郎(Mayo Lumber Company, Paldi, B.C.)の出身地については皆目見当がつかない。はっきりしていることは、メイヨ木材会社に所属する岩手県出身の日本人ということだけである。パルディはかつて、ダンカンの西11`のカウイチャン・バレーに存在したが、今はゴーストタウンになっている。

  1918(大正7)年、インド系のメイヨ・シンが3人の日系人の助力のもとに、この地で木材会社を創業した。その助力者の1人が細川與一郎だったと推察される。会社はその後、順調に発展して、日系、中国系、インド系の人々を雇用して、大きな集落を形成するようになった。創業者メイヨ・シンの名にちなんで集落はメイヨと名付けられた。 「(メイヨは)ダンカン市より西北に七マイル、イーエス(ES)鐵道のカウチャン湖支線に沿ふメ(イ)ヨ製材会社の所在地、ダンカン市より一日三回ステーヂが通っている(前記案内)」

  全盛期には家族持ち150人、独身者100人を雇用し、小学校、中高校はもちろんのこと、シーク教寺院、仏教寺院も建てられていた。

  太平洋戦争勃発直後、日系人は本土内陸部に強制移動させられたため、会社は閉鎖を余儀なくされた。戦後一時再稼働したが、衰微の一途をたどり、廃業となった。

  細川は強制移動の時までメイヨ木材会社のために尽力したとされる。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします