盛岡タイムス Web News 2013年  8月  10日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉327 岡澤敏男 賢治5歳、妹トシ3歳の写真

 ■賢治5歳、妹トシ3歳の写真

  江戸時代の商人の器量は「勤倹、商才、始末」にあるといわれるが、政次郎はその上に「時勢に応じて経営をはかる積極性」(校本全集・年譜)を備えていた。それは「関西・四国方面まで買出しに出たほど能動的」で、そうした地域からの仕入れによって「もっぱら安くてこぎれいな衣類の販売で店を拡張」して、裕福な宮沢家の身代を造ったのでしょう。そのような商才は父喜助(賢治の祖父)にはなく、喜助が本家宮沢右八(宮右)から分家するとき、「宅地建家と金子二百両をもらっただけで当初は質屋、それからだんだん古着呉服類を商った」「どちらかといえば心の小さい人でただ堅実に営業を守る人だった」(関登久也『賢治随聞』)から、「石に金具を着せたような人」と評されたという。

  政次郎が17歳で「京都・四国まで仕入れに初上りした」ことはすでに述べたが、「東京、大阪、名古屋、つまり関東・関西に仕入れ先を求めて調べて歩いたのだが、花巻にぴったりのものの仕入れ先に、四国の丸亀をみつけた」と『宮沢賢治・ふれあいの人々』(森荘已池著)にあり「丸亀をたずねあてるには、時間と旅費とたいへんなことだったろうと思う」と推測している。たしかに関西(備後・備中)から四国方面への仕入れコースが定型化するまで何度かの試行錯誤があったに違いない。特に岡山から四国へ向かうには鉄道もなく馬や徒歩でたどるしかなく、四国への渡航は金比羅船で丸亀に上陸したのかもしれない。讃岐鉄道は明治22年に丸亀と琴平間を走り、36年3月には岡山―高松間連絡船が就航し、39年9月には讃岐鉄道が高松まで開通したので四国への渡航もだいぶ楽になったとみられる。宮沢商店の〈古着屋〉は〈呉服屋〉風で、「古着といっても、新品の流行おくれが多かった」ので歓迎されたらしい。それは小倉豊文氏が考察するように、真言宗の寺々から檀家が納めた故人の晴れ着を安く仕入れた事情もあったと考えられる。

  こうして関西・四国方面から仕入れた多量の古着が花巻の店先に到着すると、遠くからも新着した古着を買いに来て、大にぎわいだった。「地方から買いつけにくる客に対しては、ていねいに座敷に招いて酒や肴を振舞うならわしでしたから、台所働きの女たちはてんてこまいであった」が、店売りだけでなく田舎にも卸していたので荷造りは「まったく戦争のようで、くつろいで食卓につくいとまもなく、握飯を仕事の最中に立ったま食べた」とイチ夫人は森氏に語っている。

  22歳の政次郎は、初子(賢治)の出産予定日であった明治29年(1896)8月にも関西・四国方面へ仕入れに出掛けていて、賢治が生まれた時は「岡山県から四国に渡る前後であった」と本人が小倉氏に語っている。したがって初子の名付け親には政次郎の弟治三郎が代理して「宮沢賢治」と命名したという。賢治の「治」は治三郎の頭文字(治)から採ったのかも知れない。この2歳年下の弟治三郎の存在があって、政次郎は何十日も家を留守にして関西・四国へ仕入れに出掛けられたものと思われる。しかし治三郎の伝承は少なく、当時としては珍しいカメラマンだったらしい。わが国の写真機製造は明治21年3月に始まると『明治・大正・昭和世相史』(社会思想社)にみられ、5歳の賢治と3歳の妹トシを明治34年の小正月に撮影した写真のネガは貴重な一葉であるとみられる。

 


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