盛岡タイムス Web News 2013年  12月  31日 (火)

       

■  〈拓魂〉15 南部駒蔵 妻ちづるの帰国まで@


 開拓民を守ってくれるはずの関東軍は、戦線の拡大とともに中国大陸を南下していた。それに伴って、満州を守る兵士は不足して、集落には毎日のように召集令状が来た。二〇歳以上、四五歳以下の男子は、皆、招集されていった。忠治の所属した吉林省の水曲柳開拓団にも働き盛りの壮年男子はほとんどいなくなった。

  そんな中で、妻のちづるは、何としても留守を守り抜かなくては、と皆と力を合わせて農作業と子育てに一生懸命になっていた。

  昭和二〇年八月一六日、いつも世話になっている隣のおじさんが「日本が戦争に負けたようだ。これから大変なことになる」と伝えて来た。思いもかけない情報だった。開拓団は一挙に深い不安に包まれた。

  母や弟、妹が隣家で生活していたので、身の安全を考えて、ちづるは二人の子どもを連れてその家に移り住んだ。その頃から、満人が毎日、物を盗りに襲撃してくるようになっていた。開拓民には配給があったが、満人にはもちろん配給などあるはずもない。集落に食堂はあったものの、衣類を売っている店などなく、満人はその衣類を欲しかったのである。日本人は死んで埋葬する時、晴れ着を着せる習慣があったが、満人はそれを知って、遺体を掘り起こし、衣服をはぎ取って放置した。その遺体を狼や野犬が食い散らかすということもあった。ちづるは他の集落からの人たちと共に、必死になって身を守った。危険が多く、もはや集落から一歩も出ることができなくなった。その集落も襲撃され、もはや安全なところはどこにもなくなった。状況は日一日と厳しくなっていった。

  九月の初め、集落も危険だから、若い者は生き延びられるだけは生き延びよう、と集落を離れて山に向かった。しかし、老人と子どもを抱えた婦人は、満人、ロシア兵の襲撃を恐れて、もう助かるまいと覚悟し、ここで自害することになった。ソ連が昭和二〇年八月九日、日ソ不可侵条約を破って満州に侵攻したという情報も入っていた。

  帰国後、満州からの引き揚げ資料で、昭和二〇年九月五日、ソ連軍侵入により第八次下学田開拓団の三三〇人が集団自決したことをちづるは知った。

  「ソ連兵に何をされるか分からない、敗戦国の人間が殺されずに済むわけはない、われわれは死を覚悟してソ連兵と戦うからお前たちは先に死を選んでくれ」と、幹部に言われ、倉庫に立てこもり、女、子どもに眠り薬を服用させて、灯油をまいて火を放ったのだという。

  国家の後ろ盾を失い、流浪の民と化した開拓団では、各地でこうした集団自殺が起こっていた。

  ちづるは「万一の時に」と日本人会から渡されていた青酸カリを幼い子どもから先に飲ませることになった。「母さんもすぐ行くから」と涙を流して、子どもに先に飲ませようとした。

  一緒に暮らしていた小学校三年になるちづるの末の妹は「私は皆の死ぬのをみるのは嫌だから先に飲ませてくれ」と泣くので、最初に飲ませた。

  ところが長雨のために青酸カリは溶けていたのか、幸か不幸か、死ぬことができなかった。実はこれは青酸カリでなく、劇薬の昇汞であったらしい。青酸カリのような強い毒性がなく飲んでも死にきれず、水を求めて苦しがる人が大勢出た。喉が渇くので井戸のそばに座りきりでバケツの水をがぶ飲みして腹具合を悪くした。

  薬で死ねなかったので、やむなく「皆、川に入って死ぬより他にない」というのが屯長(集落の指導者)Nさんの指示であった。

  開拓団には、幼い子ども、乳飲み子を抱えた婦人が多かった。二二歳のちづるも前の年に生まれた二歳の久子、その年に生まれた乳飲み子の則夫と二人の子どもを抱えていた。

  「子どもに一杯、飯を食わせてやれ。ちょっと水飲めば死ぬから」

  年寄りが言った。皆、死を覚悟してコラン川で死のうということになった。

  落ちぶれた開拓民の何百人という列が開拓集落の近くを流れるコラン川に向かって歩き始めた。先頭の人がコラン川を腰の辺りまで入っていった。ちづるも少し遅れて皆の後を歩き始めた。せめて子どもたちに十分、食べさせてから死なせたかったのである。

  川に入り始めて少したつと、後から大声が聞こえる。

  「戻れ!戻れ!日本に帰れるようになったから皆、引き返せ」
というのである。

  ちづるたちは半信半疑の思いで集落に戻った。

  集落に戻ってNさんの話を聞くと、満警(満州の警察)と交渉した結果、四`先の平安駅まで開拓団の人たちを送ってくれることになった、という。

  一度は死を決意した開拓団の人々に、再び生きる望みが生まれた。ちづるは言葉にならないほどの喜びを感じた。先ほどまでは一人で野垂れ死にするよりも、一緒に死んだ方がましだ、死にたい、と願っていたちづるの心はうそのように変わり「生きたい」「生きるのだ」という思いが胸を占めるようになった。

  数日後、いよいよ平安駅へ出発となった。満警に守られて、全員一団となって進んだ。持ち物を奪われて裸にされた人もいたが、互いに助け合って、ようやく駅まで着いた。同じようにして各集落から集まって来た開拓民は全部で約五百人。四`の道だったが、長い、長い道だった。こうして、ちづるの家族は全員無事であった。

  (次回は1月7日に掲載します)



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