盛岡タイムス Web News 2014年  1月  25日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉350 岡澤敏男 「聖道門」への彷徨

 ■「聖道門」への彷徨(ほうこう)

  前回コラムにあげた賢治の高橋秀松への書簡(大正5年4月4日付)について小野隆祥氏が「この書簡は賢治の書簡中で私が最も好きなものである。センチメンタルではある。しかしその気持ちが自然に表現され、流露していると思う」(『宮沢賢治の思索と信仰』)と評価するように、信仰上の心情の弱さをめろめろと告白しているのです。そのなかから「聖道門の修行者には私は余り弱いのです」の一行が目に飛び込んでくる。聖道門とは浄土宗の立場(他力門)から他宗の立場(自力門・天台、真言、禅宗、華厳宗)を指すもので、小野氏は禅宗ととらえ「聖道門」を「参禅を意味した」と指摘しています。中学時代からであったが、その頃の賢治はしばしば報恩寺へ参禅に通っていたので「どんなに一心に観音を念じてもすこしの心のゆるみより得られませんでした」との告白には、参禅によって雑念を払う「聖道門の修行者」に付いて行けない自らの弱さを示したものであるのは確かです。しかしこの告白を裏返してみれば「聖道門」をめざす賢治の姿がクローズアップされ、浄土真宗(他力門)から信仰心が乖離(かいり)していく状況がみえてくるのです。

  賢治は篤信家の父政次郎を家長に、二百年来続いた浄土真宗の熱心な門徒である宮沢家に生まれ、3歳の幼少から伯母の手ほどきで「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという。長ずるに及び父の書庫にある仏書に親しみ、中学4年生(明治45・大正元)のとき「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と父に宣言し、「念仏者には仏様といふ味方が影の如く添ひてこれを御護り下さる」とまで阿弥陀仏の他力本願を信じていたことを思えば、わずか二、三年しか経たないうちに驚くべき精神的な変化が兆しており、いったい賢治の心境にはどんな問題が生じていたのか。

  真宗の信仰は極楽浄土への往生を願うものであり、それが仏教的無常観と重なり現実世界を厭離する傾向がでてくるという。賢治に人の世の無常観が自然に染み込んでいて「中学生のころと晩年のころは表面陽気に見えながらも、実は何んとも言えないほど哀しいものを内に持っていたと思う」(「兄賢治の生涯」)と賢治の弟清六氏は語っているが、そのような無常観からの脱却が意識されてきたのではないか。質・古着屋を商う罪深き身も如来の大慈悲に照らされている日常を報恩感謝し現実を諦念する父の信仰の在り方に疑問を持ったのではないか。賢治は家の職業について社会的引け目を持っていて、苦界の遊女に頼まれて衣類を入質にきたとき、賢治が店に居合わせると「かわいそうだ。世の中が不公平だ、父の家業がいやだ」と言って、オイオイ泣き出したと妹シゲさんが語っている。しかし社会的不平等の問題について父政次郎は「所詮人間ノ足場ニ立チテ貧富ノ不平均ヲ救済セン等ハ架空ノ論ニ過ギ不申存候…畢竟仏ノ大慈悲ノ御心独リ此不平等ヲ救済シ得テ過不及皆其処ヲ得テ其現在ヲ楽シム境ニ至ル次第ニ奉存候」(明治40年12月25日発暁烏敏宛書翰)と考え、社会悪の存在については、ただ他力信仰に立って諦観するだけだった。こうした父の信仰の態度に対する強い反発が、幼少からの原体験であった真宗信仰からの乖離を招いていったのです。そして自力主義的な自己犠牲の道を模索しつつ「聖道門」へと彷徨していったものと考えられます。

  ■宮沢清六著「兄賢治の生涯」(抜粋)
       『兄のトランク』より

…以上のような環境や条件が、前かその傾向のあった賢治に人の世の無常を極めて自然に染み込ませたのだと思う。全く、幼い頃から私の見た兄は、特に中学生のころと晩年のころは表面陽気に見えながらも、実は何とも言えないほど哀しいものが内に持っていたと思うのである。父がときどき「賢治には前世に永い間、諸国をたった一人で巡礼して歩いた宿習があって、小さいときから大人になるまでどうしてもその癖がとれなかったものだ」としみじみ話したものだが、たしかにそのように見えるところがあった。

  兄は家族たちと一しょに食事をするときでさえ、何となく恥ずかしそうに、また恐縮したような格好で、物を噛むにもなるべく音をたてないようにした。また、前かがみにうつむいて歩く格好や、人より派手な服装をしようとしなかったことなど、孰れも子供のときからというよりは、前生から持って生まれた旅僧というようなところがあったと思うのである。(以下略)





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