盛岡タイムス Web News 2014年  2月 1日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉351 岡澤敏男 真宗信仰からの頽落

 ■真宗信仰からの頽落

  真宗信仰からの乖離は中学4年3学期(大正2年)の舎監いじめ事件により寄宿舎から追い出され、下宿先を清養院(曹洞宗)にしたことも一因とみられ、同年9月に報恩寺(曹洞宗)尾崎文英住職のもとで参禅し頭を丸め登校した事情は、明らかに信仰上の迷悟としか言いようがない。また大正3年4月、中学卒業後間もなく岩手病院(岩手医大付属病院)に入院し肥厚性鼻炎の手術を行なった際、高熱が続いたある夜のこと、「岩手山の山神に腹を刺された夢を見たのち熱が下がった」という伝承も阿弥陀如来から岩手山の山神への信仰異変のしるしと見られなくもない。

  さらに入院中に詠まれた40首近い短歌に「星もなく赤き弦月たゞひとり窓を落ちゆくは只ごとにあらず」「ちばしれるゆみはりの月わが窓にまよなかきたりて口をゆがむる」「今日もまたこの青白き沈黙のなかにひたりてひとりなやめり」などと特異な表現の作品もみられ「焦燥・劣等感・自棄的感情」の状態にあると精神科医福島章氏の指摘がある。そうした抑うつの症状には、真宗信仰から頽落(たいらく)する心情をも重ねて考察される必要がある。中学4年頃までは「小生は淋しさに堪へ兼ね申し候 無意識に小生の口に称名の起り申し候」(政次郎宛書翰)と阿弥陀仏の名を唱えるほどの堅い信者だったが、もはや病気回復を願って称名を口にしなくなっていた。そして看護に訪れた父政次郎が発熱して倒れ賢治と枕を並べて入院したとき「粘膜の赤きぼろきれのどにぶらさがり父とかなしきいさかひをする」と、真宗信仰に対する父と子の亀裂があらわに表出されているのです。

  5月末頃に退院し帰宅した賢治は、進学する友人へ対する悩みと焦りで心の晴れることがなかった。そして「何となれかの巌壁の火のごとき上にたゝざる何とてなんぢ」「岩つばめわれにつどひて鳴くらんか大岩壁の底に堕ちなば」と藤村操にあやかり自殺願望をも空想するようになったが、その危機を回避させてくれたのが薬師仏だったらしい。「東には紫磨金色の薬師仏空のやまひにあらはれ給ふ」と歌い、賢治の心の病(空のやまひ)を平癒させるため薬師仏が出現したというのです。この薬師仏とは盛岡や花巻の東に望まれる早池峰山と並び立つ薬師岳を見立てたものと思われます。「その早池峰と薬師岳との雲環は/古い壁画のきららから/再生してきて浮きだしたのだ」(『春と修羅』「栗鼠と色鉛筆」)とは「紫磨金色の薬師仏」を比喩するものです。賢治はついにファウストがメフィストフェレスと取引したように「いささかの奇跡を起す力欲しこの大空に魔はあらざるか」と、あらんかぎりの声で天空へ叫んだのです。その待ち望んでいた「魔」が9月になって訪れた。「店番やら、養蚕をしていたので桑の葉をつんだり、ふらふらどこかを歩きまわり、しょんぼりいているのであるから、家族も気が気でない。父もそのありさまを見ては考えざるを得なかった。商人としては全然むんない。父自身好学の士であるから、あわれに思える。母イチはことごとく賢治の味方である。ついに進学、それには盛岡高等農林学校ということに意見が決まった。賢治のよろこびは察するにあまりある。」と堀尾青史氏は『年譜・宮沢賢治伝』で述べています。

  大正4年2月、賢治は高農を目指し北山の時宗「教浄寺」に下宿して受験勉強に集中するのです。

 ■大正三年四月(「病院の歌」抄)

○どこまでも検温器のひかる水銀がのぼりゆ
  く時つぶれりけり目を
○白樺の老樹の上に眉白きをきな住みつゝ熱
  しりぞきぬ
○われひとりねむられずねむられずまよなか
  の窓にかゝるは赭焦げの月
○つつましき午食の鰤を装へるはたしかに蛇
  の青き皮なり
○目をつぶりチプスの菌と戦へるわがけなげ
  なる細胞をおもふ
○十秒の碧きひかりは去りたればかなしくれ
  は又窓に向く
○蛭がとりし血のかなだらひ日記帳学校ばか
  ま夕暮の家
○たんぽぽを見つめてあれば涙湧くあたま重
  きまゝ五月は去りぬ 
○よごれたる陶器の壺に地もわれもやがて盛
  られん入梅ちかし
○わがあたまときどきわれにきちがひのつめ
  たき天を見することあり

 


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