盛岡タイムス Web News 2014年  3月  10日 (月)

       

■  新・三陸物語〈54〉 釜石近郷A 金野静一


     
   
     

 鉄じゃ釜石日本一…「釜石」と聞けばこの民謡のイメージを持つのが当然のことと思われていた。鉄都と称せられるまでは漁港としての釜石の意が強かった。しかも、かつては「遠野郷」の有力な一郷を成していたのである。

  文治5年(1189)、平泉を倒した源頼朝は、功労のあった家臣阿曽沼広綱に「遠野十二郷」を与えたという。

  郷とは律令制の地方行政区画の末端組織で、国・郡・里制の里を解消したもので、50戸で一郷というのが原則であった。

  さて右の十二郷は、時代によって伸縮するが、東は山田・大槌・釜石、西は達曽部・宮守・田瀬まで、後の上閉伊郡が、すっぽりと重なるという広い地域であった。

  一郷ごとに郷名が付いていたようであるが、現在残るのは北郷・南郷・上郷・下郷の四つのみ。「遠野古事記」の宇夫方広驍ノよれば、「十二郷ノウチ下六郷ハ達曽部・田瀬・綾織・小友・宮森・鱒沢、上六郷ハ村ノ名知レズ、大槌・釜石モ遠野領内ノ由」とある。

  かつては遠野十二郷の中において、山田などとともに沿岸地の釜石、唐丹、そして鵜住居などとともに、異色の存在であったことは確かであろう。

  釜石は近代に入るや「釜石製鉄所」と、「釜石湾」などの天然自然にも恵まれた海港により「鉄と魚の町」と称せられていた。

  内陸と沿岸の中継拠点たる遠野へ至る道は、釜石とは仙人峠を通じて、旧栗橋村とは笛吹峠を通じてあり、交流は盛んであった。

  「遠野物語」の84には、『釜石にも山田にも西洋館あり。』と記されている。これを略記してみると、
  ―佐々木氏の祖父(喜善の祖父)は70歳ほどで、3、4年前に亡くなる。

  この人の青年の頃と言えば、嘉永(1848〜1854)の頃であろう。海岸の地には、西洋人あまた来住している。釜石にも山田にも西洋館あり。

  船越の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇(やそ)教は密かに行われ、遠野郷にても、これを奉じて磔(はりつけ)になった者もある。

  浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合っては嘗(な)め合うものなりなどということを、今でも話にする老人あり。海岸地方には、合(あい)の子、なかなか多かりしということなり―

  「物語」の中で「海岸の地には西洋館あまた来住してありき」とあるが、本当に釜石や山田に西洋館があったかどうかは定かではない。しかし、多くの外国船が、三陸沿岸地域にやって来たことは事実である。

  また「海岸地方には合の子なかなか多かりし」ともあるが、それが言うところの「異人」との子であるかどうかの確たる証拠はない。


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