盛岡タイムス Web News 2014年  3月  12日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉375 伊藤幸子 「最悪の事態」


 線量計の針揺れている夢の中いつしかからだびしょ濡れの魚
                                 道浦母都子

 「2011年3月11日午後2時46分。ゴゴゴゴゴ……異様な音とともに、突然、大地が揺れ始めた。『地震だ!』吉田はすぐに書類をおいて立ち上がった――」

  福島第一原発には東電だけでなく、協力企業の社員たちを含め、6千人を超える人々が働いている。そのうち放射線管理区域内での作業者だけでも2400人に達する。その人命と原子炉を守ること。吉田昌郎所長の地獄の日々は、この時から始まった。

  門田隆将著「死の淵を見た男」を何度読み返したことか。地震、津波、全電源喪失、注水不能、放射線量増加、水素爆発…次々と「最悪の事態」が押し寄せてくる。

  あの事故の時、福島原発の1号機から6号機までの原子炉建屋に隣接した中央制御室には、それぞれの当直長と運転員たちがいた。電気が失われた現場では、あらゆる手段を人力に頼るほかなかった。それは多くが地元、福島に生まれ育った人たちだった。

  11日午後4時55分、現場の状況を確認のため最初の部隊が原子炉建屋に向かっている。二重扉の前に来た段階で放射線測定器は振り切れてしまった。地下には魚が死んでいた。3人で消火ポンプ室の確認作業をし、次々と交代で原子炉にポンプから水を入れるためのライン作りをする。夜11時以降は線量が高くなり撤退、このラインができていなければ原子炉を冷やす行為が不可能になる。この処置は緊対室からの指示ではなく現場の判断だった。

  そもそも原子炉を安全に制御するためには第一に炉を「停める」、第二に「冷やす」、そして第三に「閉じ込める」が鉄則である。

  3月12日、午後3時36分、突然1号機の原子炉建屋が爆発。リアクタービルの5階部分がなくなっていた。汚染測定上限値を示す。

  爆発後は海水注入しかとるべき道がなくなった。しかし官邸は注入中止を命じ、それでも注入は続き、菅総理の現地視察の模様はテレビでも報じられた。電源喪失と冷却不能が続けば最悪の事態は「チェルノブイリ×10」だったといわれる。格納容器の圧力を下げるため、「早くベント(排気)をせよ」との指示の単語が疾風のように日本中を駆け抜けた。

  「もう駄目かと何度も思いました」と語った吉田氏。事故後、食道がんのため11年11月入院。12年7月には脳出血で手術、自宅療養をされていたが13年7月9日逝去、58歳。
(八幡平市、歌人)
  


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