盛岡タイムス Web News 2014年  3月  31日 (月)

       

■  新・三陸物語〈57〉 釜石近郷D 金野静一


     
   
     

 中村判官堂。平泉の三代・秀衡の死によって支柱を失った源義経は、密かに追手の難を逃れて三陸海岸に向かった…。

  気仙を通り遠野を経て、義経一行は、海岸に出る前に栗橋村の橋野に寄る。ここには「中村判官堂」と呼ばれる小さな祠(ほこら)がある。

  この地に義経一行が宿泊、そのお礼として義経の使用した鉄扇を置いていったという。この堂の別当を長い間務めたという和田家では、次のように判官堂について語る。

  「今は、かつてのように盛大な祭りは行わないが、ただ毎月の15日の参拝だけは、欠かさずにおこなっている。

  このお堂は、申すまでもなく判官さまを祭ったもの。祠の中には笹りんどうの紋の衣服を着けられた義経公のお姿が見られる…」と言う。お堂の中の石像(義経)は、後世に造られた比較的新しいものという。

  義経一行が実際に宿泊した旧家は「八幡家」と言い、義経が使った鉄扇と経文は、今も保存されているという。この辺りには「八幡」という名字を名乗る家が多いが、義経らの宿泊した八幡家は、その大本家だという。

  八幡家では、義経一行が旅立った後、直ちにお堂を建立した。それは義経や経文を書いた弁慶らの旅の息災を祈願するためであった。

  そしてこのお堂の名称は誰言うとなく「中村」(現存の釜石市橋野町中村)という集落の地名と義経の持つ官名(判官)とを合わせて「中村判官堂」と称せられるようになったという。

  さらに八幡家の邸の北西部に、氏神様として「平泉さま」が祭られている。今はコンクリートで造作されているが、それでも昔からそうであったように、その背後は、ちょうど平泉の方向となっているとのこと。

  一行は、ここでこれからの目指すべき方向や万一、追っ手が出現するようなことがあった場合などの処置や方策を詳細に打ち合わせた後、浜の方向へと旅立って行った。

  途中、大雨のため、困難を極めたが、どうにか鵜住居川の室浜(むろはま)に着き、ここで無事一夜を過ごすことができた。ここで休息を取った後、海岸沿いに北上していったと伝えている。―実は、この室浜に「法冠(ほうかん)神社」と称する石の小祠がある。この祠について近くにある旧家の山ア家では、

  「このお社は、わが家の先祖が、義経公が北行の途次において野宿した所に建立したものだ」

  と称している。言うまでもなく、義経一行の武運を祈ってのことであり、地元では「ほうがん」と呼称している。小祠は、昔のものは明治の半ば頃に焼失したので、現在は石の祠となっていて、「法冠大神堂」と記した棟礼が共に祭られている。

  三陸海岸の海沿いの市町村には、例外はないと言ってもよいほど「義経伝説」が伝承されている…。


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