盛岡タイムス Web News 2014年  5月  15日 (木)

       

■  〈続・志和の藩境塚〉6 荒川聡 4つのタイプがあった


     
  石森塚の詳細を記した絵図(玉山千代男さん所蔵)  
 
石森塚の詳細を記した絵図(玉山千代男さん所蔵)
 

 近世こもんじょ館主宰の工藤利悦さんは、玉山千代男さん(紫波町桜町)と熊谷一さん(同町片寄)が所蔵する絵図について、「この史料は、塚を管理するため、山伝いに歩いた役人の家に残っている絵図。これまでの調査で山を歩いてきた経験と合わせた検討により、塚は四つのタイプがあることが分かった。一つは円形、二つ目は方形、三つめは石森、四つめは石ザリ」と、藩境塚には四つのタイプが記されていることを指摘する。

  4番目の石ザリ塚は、鍵掛峠にある2塚の次にある78番塚。まとめの3回目で、「一部は葺(ふ)き石らしいもので覆われていた」と紹介した塚のことである。山中では円形や方形の塚も確認している。図面により石森塚は平地の一部に構築された石組みの塚で、中央には柱が立てられている。 

  盛岡藩家老席日誌雑書に塚柱という記載がある。工藤さんは塚が崩れて、柱にしたものもあったと推測していた。ところが、高水寺堰の支堰の野沢堰沿いに構築された盛岡領の塚が全て石森塚であったことが、玉山さんの絵図から判明した。 

  石森塚について工藤さんは「盛岡藩の『雑書』によれば、洪水で塚柱が流されたという記録が記載されている。石森という記載もあり、腰巻き、笠付き塔婆塚とイメージしていたが、この絵図で石森塚ということが分かった。雑書では、これを塚柱と簡単に書いていた」と話す。

  洪水で流されたのは、稗貫郡との境付近の高台の10番台後半の塚。ここが流されるほどの洪水であれば、被害は広範囲で甚大なはずだが、そうした記録は見当たらず、疑問に思われていた記載だった。

  もう一方の熊谷家の絵図により、この謎が解決した。「この記録は滝名川の洪水被害を記したものだが、塚番号とは全く関係のない場所を示していた。この図面を見て分かったのは、藩境塚の通し番号とは別に、1番、2番というように滝名川堰沿いに記されていたこと。滝名川堰から見た塚番号表示が記録されていた。この図面を見ることで雑書の疑問が解明された」と話す。

  つまり、高台ではなく、平場地帯の水害だったことが判明した。洪水による塚の被害、修復の記録は複数確認されている。

  このほか、3年前に紫波町教育委員会の発掘調査で確認された1番塚、2番塚については、役割を終えた古塚であることも絵図から判明した。「1番、2番塚は古塚と書いている。この辺りで洪水があり、新しい塚が築かれ、中には泥上げした泥で築いた塚もあったことも記載されている」。塚に面する通りは古道という地名となっているが、この道が盛岡、八戸両藩の藩境であることから境塚は廃止された後、この道を境界とするようになったことも判明した。
(荒川聡)


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