盛岡タイムス Web News 2014年  7月  21日 (月)

       

■  〈新・三陸物語〉73 金野静一 釜石近郷21


 甲子(かっし)

  享保の又十郎の請願による植林事業の成功により天明3年(1783)以来、これの伐採による公私の収益が増え、村民一同大いに気をよくしていたとき、さらに喜ばしいことが続いた。

  それは、享保12年(1727)3月27日、甲子村仙人において、磁鉄鉱を掘り当てた。これは、御山守より訴え出ずたるは、本村における鉱物発見の最初の記録とされている。

  あるいは、その発見地は、似内の山中であったとの説もあるが、やがて鉄の町≠ニして繁栄をもたらす前哨戦≠ニも言えよう。

  鉄鉱の発見については、文政2年(1819)になると、遠野の人、石掛信左衛門が、大橋の山中久吉の沢において鉄鉱の発見をなせりという。

  次いで嘉永2年(1849)、大橋に吹床を設け、製鉄を開始するに至った。安政年間より南部氏の藩の事業に帰した。すなわち安政4年(1857)、大橋地区に大島高任が、わが国最初の洋式高炉を築き、同4年12月1日に銑鉄の製造に成功した。明治7年(1874)には大橋鉱山は官営になり、採鉱製錬に努めるようになる。

  その後同18年、田中長兵衛がこれらを払い下げ、鈴子に工場、大橋および栗橋村(橋野)に分工場を設け、事業の拡張改善し、わが国の鉱山の魁(さきがけ)をなしたのである。

     
   
     


  ちなみに大橋は、もと坑民の村落として発達したところで、「三閉伊路程記」には、
「大橋は、家わずかに五軒、地の神社あり」
と記されている。
「大橋と言える地名は、同称の橋名より起これるものの如く」
ともあり、「野田旧記」には、
「文政八年丙三月、大橋懸替(かけかえ)に付き、諸材木山下げ云々(うんぬん)」
と見える。大橋という地名の由来や経緯についての時代の変遷をよく写し得ているように思える。

  この村の村社は「洞泉神社」と称していたが、元は「日月宮」を祭る社と伝えている。大永5年(1525)野田、加賀の甲子地方を開拓すると同時に、この社を勧請したものというが、古老は皆、口をそろえて、それ以前より在った社であると主張する。

  明治の御一新の折、「洞泉神社」と改称されたが、祭日については毎年4月18日と、従前通りに行われたという。

  元禄時代の頃、本来釜石と称する本村特有の地名を「矢の浦」に移行することになる。その折の村民の多くは、これを喜ばず反対で、すこぶる不平の声が高かったことは、前にも述べたとおりである。

  ところで、かつて仙人峠の東面中仙人に石の筧(かけい)と「休石」があった。文化2年(1805)8月、釜石浦の佐野忠治、甲子村菊池六兵衛の寄進によるもの。坂の沢水源より水を引き、行路の人々の便をはかったものという。

  石の筧には、

  山とひとし其の名も高く引き水の
  音は筧の谷に聞こえて

との歌が記されていた。


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