盛岡タイムス Web News 2014年  7月  31日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉116 菊池孝育 エピローグ(最終回)

 
 この稿は、「岩手からのカナダ移住物語」との題でスタートした。しかし、明治、大正を経て、太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月の記録をもって、岩手出身者の動静が不明となってしまう。開戦直後の強制移動とその後の強制収容の中にのみ込まれてしまったと思われる。

  連載71回までは、丹念に岩手出身者を追い続けたが、その後は、日本全国からの日本人移住者の苦闘を主に取り上げた。従って後半は「日本人カナダ移住物語」になってしまった。その流れの中で見え隠れする岩手出身者を随時取り上げる結果となった。

  前回、日系人に対するBC州議会の謝罪について書いた。明治の中期から、日系人を差別し、迫害し続けてきたBC州としては、遅きに失した感がある。英宗主国の女王代理である副総督を戴くBC州議会は、かつては英国系人が主流を占めた。その頃は、日系人に対する謝罪など、毛頭考えられなかった。現在は、カナダ総督すら、女性のみならず、多様な人種から起用されるようになった。BC州の副総督も同様である。BC州議会も、多様な人種で構成されるようになっている。人種問題に関する過去の過ちを率直に謝罪する障害は、もはや存在しないと言える。

  日系カナダ人の先駆者は、ほぼ140年前に海を渡った。以来筆舌に尽くしがたいほどの苦難を経て、今日に至っている。現在カナダ社会で高い評価を得ている日系カナダ人の地位は、自分たちの不断の努力と苦闘の末に勝ち取ったものと自覚している。カナダ政府の温情で与えられたものでもないし、日本政府の影響力で取得したものでもない。ましてや日本からやってくる観光客の懐によって、買い取ってもらったものでもない。

  カナダの自然は美しい、カナダの人たちは親切で優しい、と賛辞を惜しまない日本人観光客は多い。日系カナダ人の多くは、その日本人観光客を悲しいまなざしで眺めている。彼らは、日系人の屈辱的であった苦闘の歴史に一顧だにしないからである。

  「日本の若い人たちは、ホームステイ先が日系人宅になるのを嫌がるようです。特に若い女の子は白人が好きだ、と露骨に言う人もいます」

  一日系婦人の述懐である。

  ビクトリアに戦前からの日系人は少ないし、彼らの子孫も少ない。多くは戦後の移住者である。戦前は、日系人にとって住みにくい地域の一つであった。新渡戸稲造博士もビクトリアでなく、バンクーバーで病気になったのであれば、ひょっとすると助かったかもしれない。当時の駐バンクーバー日本領事館の記録によれば、メアリー夫人と身内の婦人が孤立無援で看病に当たり、ビクトリア市当局、および市民の援助は一切なかったようである。博士の死後、まな弟子の高木八尺教授が夫人と相談して直ちに遺体解剖を要請した事実は、死因に疑いを持ったからだといわれる。当時の緊迫した国際情勢とビクトリア市民の反日感情からして、当然の措置だったとされる。

  現在の盛岡―ビクトリアの友好関係の裏にも、歴史上の冷厳な事実が存在したことを改めてかみしめる必要があるであろう。

  今後、日本とカナダの国家間は、一層緊密な友好関係を維持していくことになるだろうが、われわれ庶民レベルでは、過去の不幸な時期の反省を踏まえ、無原則な相互依存を排し、率直に意見交換ができる真の友人関係を築く必要があると考える。そのためには相互の交流史を踏まえて未来の関係を構築する視点が必要となるであろう。
  (本連載は今回で終了となります)


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