盛岡タイムス Web News 2014年  9月  24日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉 三浦勲夫 漂流の行方


 最初期の露和辞典は18世紀初頭に、日本人漂流者の日本語を手掛かりとして作られた。彼らの多くは漁民あるいは商人で、薩摩、南部、伊達、伊勢地方の階級方言しか知らなかった。船が嵐で漂流し、カムチャツカ半島やアリューシャン列島などにたどり着くと、不運な者は土民に殺されたが、好運な者は救われてペテルブルクまで連行され、設立されたばかりの「日本語学校」で少数のロシア人に日本語(方言)を教え、辞書編さんに協力した。後に日本語学校はペテルブルクからイルクーツクに移された。

  漂流民の名前はデンベイ、サーマ、ゴンザ(薩摩)、ソーザ(同)、竹内徳兵衛(下北の南部藩士)の配下ら、および善六(伊達)らである。彼らは全てロシア正教に改宗され、ロシア人と結婚したり、病気などで死亡したりして、ヤソ教禁制の鎖国日本に帰ることができなかった。帰ることができたのは、その後の大黒屋光太夫(伊勢)と高田屋嘉平(淡路)である。幕末期、欧米やロシアに開国を迫られて日本は開国し、明治維新を迎える。

  徳川幕府が身の安全を画策し、オランダ、中国、朝鮮以外とは国交を開かなくても、外部勢力はその門を強引に押し開いた。日本には対抗しうる武器、兵力がなく、武器や技術を生み出す学術の蓄えもなく、豊かな資本力もなかった。「富国強兵」を立国の柱としたほどに富と軍事力は貧弱で、「知」の面でも後進国だった。

  英国は17世紀、アメリカ東岸から原住民の少年を拉致して本国に連れ戻り、英語を仕込んだ。目的は原住民との間に通訳として働かせることだった。しかしこの少年は船がアメリカに戻ったとき、脱走して部族に戻った。1620年、新教徒のピルグリム・ファーザーズがイギリスからアメリカに集団で渡り、飢えに苦しんだ冬、この若者は英語を話しながら部落に数人を案内し、食料や穀物の種を恵んだ。

  漂流して偶然にたどり着く人間を利用して、その言語を習ったり、現地から人を拉致して自分らの言語を仕込んだり、彼らの言語を覚えたりすることは世界が地球規模に拡大する時期には、一般的に見られたことだろう。話は変わって、北朝鮮は20世紀後半に、日本人やその他の外国人を拉致して連れ帰り、言語教育に当たらせた。同じ言語を話す韓国人を拉致したケースもあるようだが、洗脳してスパイを働かせる目的だったのだろうか。北朝鮮政府は今年、日本人拉致被害者の徹底的な再調査を日本政府に対して約束し、夏から秋にかけての時期に調査結果を報告する予定であったが、それを先に延ばす態度である。被害者家族や日本の政府、国民は今度こそ彼らの誠意ある回答を期待している。

  異文化が接触し、交流を行うとき、言語の相互理解が出発点となる。国交のチャンネルが広ければ、草の根交流に始まり、さまざまなルートで、民間あるいは政府間の交流が可能である。逆に、交流チャンネルが狭ければ、信頼を築くのに苦労する。人道や国際法への背信行為も重ねられる。結果として、不信感が重なり、信頼の形成には、かなりの忍耐と努力が必要となる。国際間の安全保障は二国間のみで成立するばかりではない。国際連合をはじめ、多国間協議による枠組みが利用される。一国の「富国強兵」策ではなく、正義と人道の枠組みの中で、各国が権利と義務に協調することが基本である。
   (岩手大学名誉教授)
 


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