盛岡タイムス Web News 2014年  9月  28日 (日)

       

■ 立原道造生誕100年 盛岡ノートいまむかしC まぶたの父は慈文 紅子を想い、「帰郷」の夢 賢治文学には深く反発

     
  立原が「皇帝」を聞いた願教寺  
 
立原が「皇帝」を聞いた願教寺
 


  立原道造は、啄木に酔いながら、賢治には醒めていた。中央大准教授の名木橋忠大氏著「立原道造の詩学」によると、立原は盛岡滞在中の1938(昭和13)年9月28日、深沢紅子に次のような手紙を宛てている。

  「今の僕はもっとちがった歌を歌いたいとおもひます。宮沢賢治をよんでいたら、宮沢賢治もかなしいうそつきです。僕がいま欲しいのはあんないつはりの花ではありません。(略)もとは宮沢賢治にはあのイメージの氾濫でだけで反発した。しかし今はもっとふかく反発します。大切な大切なもののために」。

  生前は文壇の孤立者だった賢治に、立原が人脈的に反発したとは考えにくい。むしろ旧家の桎梏(しっこく)に対する賢治文学の屈折を、本能的に忌避したからではないか。

  立原は1914(大正3)年東京生まれ。前年に兄は早世し、5歳で父を亡くし、9歳で関東大震災に遭い、日本橋の家を焼け出された。

  復興する大東京にモダンボーイとして育ち、一高、東大と進んだ秀才にも、満たされないものがあった。家族の絆と、ふるさとへの憧れである。

  立原の盛岡入りの動機には、プラトニックな思いを寄せていた紅子の家族に甘えようとする欲望が潜んでいた。城下盛岡は、江戸の残り香漂う幻影の故郷であり、姉と慕う紅子の家族に、まぶたの父を探した。

  寂しき詩人の胸のうちに、厳父への恐れを磁場に結晶した賢治作品は、「かなしいうそ」としか響かなかった。

  紅子の父、四戸慈文(1877−1951)は、まさに立原をわが子のように迎え、愛宕山の山荘「生々洞」にもてなした。慈文は盛岡市肴町にあったむつみ幼稚園の世話役として、多くの子どもを育んだ。幼稚園を運営した同市北山の願教寺の島地興霖住職は、島地黙猊師ら先代の伝聞で、慈文の人柄を語る。

  「慈文さんをどんな人と聞くと、皆さん最初におっしゃるのは、『童話のおじさん』。童話がとても面白く、大人も聞いた。お釈迦様の物語を加えながら、どなたが聞いても面白く分かりやすく話した」

  慈文は願教寺から日本仏教界を動かした高僧、島地黙雷、島地大等に私淑し、寺院の運営に深く関わった。

  「深沢紅子さんはひとり子だった。小さいとき弟、妹が欲しいと父に無理なせがみ方をした。不可能なことを可能ならしめるためには、幼稚園なら男の子も女の子もいるから、慈文さんが紅子の願いをかなえてやろうと、運営や教育に全力投球した。どなたにも好かれ、子どもには引っ張りだこだった。紅子さんからもそんな思い出を語られた」

  生々洞に滞在中の立原も、願教寺を訪れていた。

  島地住職は、「蔵の中に壊れた蓄音機があり、それで『皇帝』アダジオを聞いたことを感動的に書いている。願教寺の名前は出てこないが、前の住職はクラシック、ベートーベンが好きで、レコードを集めていた。本堂か庫裏(くり)でクラシックを聴いていたとき、立原さんが通りかかったという」と語る。

  「盛岡ノート」には、「きょう『皇帝』のアダジオを聞いた。あのような美しいアダジオを 僕の言葉は歌うことはできないだろうか」と、見果てぬ理想をうたいあげる。

  願教寺には青春の賢治も学んだ。立原が夭折することなく盛岡を再訪し、慈文が賢治文学との「和解」を取り持っていたら−とも思うが、寺町に、無常の風立ちぬ秋。師の堀辰雄からも独り立ちした詩人は、「又三郎」のごとく、北の街を旅だった。      (鎌田大介)


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