盛岡タイムス Web News 2014年  12月  31日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉416 伊藤幸子 「遺稿集」


 身じろぎもせずに冬木にゐる禽(とり)が地上の人の去りゆくを待つ
                                    平尾一葉

 暮れもおしつまってから追悼集を読むのは寂しい。今年も数え日となったころ、一冊の歌集が届いた。山形の、故平尾一葉氏の「光陰」である。なんとなつかしいお名前を聞くものだと、私はしばらく時間の谷間に佇んだ。

  普通、遺稿集というと、遺族やお弟子さんたちの手によって、一周忌とか三周忌ぐらいまでにまとめられることが多い。出版界では「遺稿集なら早い」とも言われる。それは作品に対する希望も取捨選択もかなわぬ本人不在の作業だからスピーディーに進むということだ。

  京都の永田淳氏の青磁社より出版の歌集。1ページ2行取りの4首組みで、古典的な歌集スタイルが手にしっくりとなじみ心地よい。1巻3章に分かれ、昭和28年から平成5年まで総数696首が収録されている。

  作者は大正3年山形生まれ。昭和10年、北原白秋の「多磨」入会。昭和20年、巽聖歌創刊の「新樹」入会。昭和27年「多磨」解散、28年、宮柊二の「コスモス」創刊に参加。

  日本の詩歌文学史上、昭和10年、20年代というのはどんな風が吹いていたのであろうか。私が入会した昭和40年初めごろはまだ「多磨残党」という語が聞かれた。何かそこには新しい時代の到来にも、まだ先師白秋への師恩と誇りのようなものが感じとれた。

  巽聖歌の「新樹」は現在の「北宴」の母体であり、連綿と続く詩譜を継承して今に至っている。残党も末裔(まつえい)も少しく寂しいが、平尾一葉氏と語るとき、親近感は濃く密だった。

  私が米沢市で暮らした12年間に、山形市や鶴岡市でよく歌会がもたれた。家中新町(かじゅうしんまち)の由緒あるご家老家のお座敷が印象的だった。そこの家刀自(いえとじ)も、また山形でクモの研究家として知られた方のことも、後年亡くなられたと知った。

  「足なえて立てずなりたる七十路の媼(をうな)の五体に鍼灸(しんきゅう)をうつ」「しろがねの鍼(はり)もてさする幼子の手足腹背なべて熱しも」これは平尾氏の生業、鍼灸師のうた。「気うときまで春暖かきひと日なり患者なき昼われは居眠る」との一首もみえる。生涯現役の名師として評判だった由。

  「最上川難所のひとつ碁点の瀬赭(あか)く濁りて波の逆巻く」最上川舟唄に、「碁点隼(はやぶさ)三ケの瀬もまめで下ったと頼むぞえ」という歌詞がある。はやしことばの延々と続く舟唄は、やはり土地の人でなければ出せぬ味わいがあった。平尾さん、平成15年、89歳にて永眠。本人のあとがきも完璧で、没後11年目に刊行の本、なつかしく温かい。
(八幡平市、歌人)


 


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