盛岡タイムス Web News 2015年  5月  6日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉272 三浦勲 田野畑にて


 5月1日から2日と、宮古から田野畑を回った。田野畑に友人がいる。宮古短大の授業を終えて、午後3時に宮古駅前で、彼と落ち合い、その車で1時間、国道45号を北上。崎山、田老を過ぎ、田野畑に至る。ホテル羅賀荘に4時に着き、部屋でゆっくり話し、夕食後と翌日の再訪を約し、彼が帰宅した後、海山の美味満載の夕食に舌鼓を打った。

  彼は津波の3年余り後、去年、千葉から故郷に帰った。故郷の復興を願って、家業を助けている。夕食後、ホテルのスナックでまた話す。母親は95歳で昨年亡くなる。津波で家を失ったが、高台に逃げて命は助かった。家業は兄が仮設店舗で酒類を商う。彼は、流されなかった軽トラで運送を担当。東京で会社経営と営業部門を統括した彼は、田野畑の復興策を、産業面、教育面からも、積極的に考えている。その話を聞き、私も学んだ。

  田野畑は、牛乳、牛肉、海鮮類、北山崎などで知られている。「日本のチベット」と呼ばれていたことを知る人は極めて少ない。私自身、日本のチベットは「北上高地」全体だと思っていたが、田野畑だったと知ったのは数年前である。「チベット」の理由は、交通の不便、水田がない地形、ヤマセが襲う冷たい夏にある。彼自身、盛岡の中学校に上がったが、盛岡に出るのに一日がかりだった。家から歩いて山を越え、岩泉の小本に出る。バスに乗って宮古に出る。宮古から汽車で盛岡へ向かう。墓参りも早朝出発、山越えして、墓を拝んで昼食。また山を越えて、帰宅。片道3時間、往復6時間だった。根気と粘りが育たないわけがない。

  沿岸地区では、田野畑の人たちは、「頑張り屋」で通る。頑張り、努力して、人並みとなる。その土台に立って、人より優れる。江戸末期に発生した「三閉伊一揆」は農民3万8千人を動員した。指導者は田野畑の農民、畠山太助だった。江戸湾に黒船が現れて、天下騒擾の時代となる時期と一致する。3度(1度目は佐々木弥五兵衛指揮)の蜂起はいずれも成功。仙台藩の仲介で南部藩の悪政は、天下に知られることとなった。仙台藩への陳情は釜石唐丹で行われ、南部藩への直訴は遠野で行われた。一揆の農民たちは道中、数を増し、笛吹峠などの難所を越えて行進した。最後に捕えられた太助は自害して果てた。

  草の根や葉まで食う飢餓(一揆当時は「けがつ」と呼ばれた)に苦しむ貧農たちを組織し、お上と戦った太助の精神が、この地区に受け継がれているようだ。原発建設計画も受け付けなかった。民意を指導したのは、大阪府出身で、田野畑の自然と人を愛し、終生の地と定めた女性だった。豊かな山、豊かな海、勇壮なリアス海岸の断崖美、これらを誇りにして、復興とその後の課題に今、村民は取り組んでいる。

  山では自然放牧の牛がこくのある牛乳を産し、脂身の少ないビーフを供する。海は、ワカメ、昆布、アワビ、ホタテをもたらす。北山崎が代表するリアス式の断崖美は一億二千万年前からの地層をいくつもの縞模様に重ね、急峻な角度で海に切り込む。地殻の盛り上がりは今も続く、北緯40度地点である。地殻変動や津波など、目に見える地球成長の歴史を刻み、ジオパークに指定された、激しい海と陸の戦いの場である。幕軍の榎本武揚は宮古湾での海戦で官軍に敗れ、田野畑に逃れ、崖の切れ目から山をはい上がり、北海道・函館まで行進した。

  「地震があったらすぐ上階へ」がホテルのフロントで聞いた警告だった。幸い、地震はなかった。晴れた海の日の出を、ゆっくりと眺め、朝日を追って満ちてくる潮を見た。月や太陽とともに満ち潮が地球を周回する。海は生きて、呼吸をする実感。潮の匂いと波の音。4年前のあの日、午後2時半ごろ、満潮とは別の、黒い壁のような津波が東日本の海岸を襲い、人や動物や家屋・財産をのみこんで引いた。もはや、活断層は複雑にひび割れて、大津波は、日本中、いつどこを襲っても不思議はない。友人の言葉である。
   (岩手大学名誉教授)


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