盛岡タイムス Web News 2015年  6月 11日 (木)

       

■  〈風の筆〉104 沢村澄子 熊野古道Bもう下らなくていいから


     
   杉林がついに途切れた時、向こうに大斎原の大鳥居が見えた。思わず、歓声。その足下には満開の桜  
   杉林がついに途切れた時、向こうに大斎原の大鳥居が見えた。思わず、歓声。その足下には満開の桜
 

 荷が重くてヒーヒー泣いていたわたしの目前で、ピーター王子はそのリュックから厚い図鑑を取り出し、「知識は重い」と言った。

  それを聞いてなぜか「わたしは書家だ」と言い放ってしまい「書と数学は似ている」と続け、真面目な彼の目を、わたしはいよいよキッとキツイものにした。

  さて、では、当然、数学と書がどう同じなのかを数学者の彼に説明しなければならなくなったのだが、わたしは英語ができない。

  「もっと美しい書を書きたい。もっともっと美しい文字造形はないか。そんなことばかり思ってその秩序の組み換えに長い年月を費やしていたら、『無秩序の秩序』に行き当たった。そしてそれが書けるようになったと思う頃には、もうそれさえどうでもよくなってしまった」って、日頃、日本人にだって言ったことはないのに英語で言えるはずがなく「さまざまな秩序に関して、数式で表してるでしょ、そちらでは。数式の美しさは真理の美しさでしょう。わたしたちはそれを文字の点画の関係性、文字の形で吟味してゆくの」と伝えたかったけれど、どうして言えるもんか。しどろもどろしているうちに、彼は図鑑をしまい、一人雨の中へ。

  少し遅れてわたしも歩き出したが、とにかく上っては下り、上っては下り、ただそればかりを繰り返す熊野古道なのである。景色だってどこもかしこも同じ。杉、杉、杉、杉。杉の林!

  つくづくイヤになって、つくづく自分は平坦な道が好きなんだと思った。上りがイヤなのは以前から承知だったが、下りもイヤなのは今回の発見。ももにえらく堪えるし、何より、この下った分また上らねばならないと思うと、どうにも、どうにも、下りたくない。

  ついに、ある長い下り坂が目に入った途端、「もう下らなくていいから!」と叫びそうになった。いや、実際には叫んだのかもしれない。誰もいないし、もし外国人に聞かれたって、意味は分からないし、海に向かって青春を叫ぶ人はいっぱいいるんだし。しかし、泣こうがわめこうが熊野古道は何も言わない。ただ杉の木を、順々に並べている。

  1年前に屋久島に行った時、夢のようなロケーションに酔ったのか、難なく22`を11時間で登ってこれたことがヘンな自信になり、勘違いし、今回の荒行に。しかし、同じ世界遺産とはいえ、屋久島と熊野古道では全く違う。前者に人は、うじゃうじゃいたが筋肉痛はなく、後者には人がいない代わりに、痛みや後悔がゴマンとあった。

  杉だって、屋久島では巨木。各々、縄文杉、ウィルソン杉というように固有名詞で呼ばれ、次は美空ひばり杉だ、その次は石原裕次郎杉だ、って騒いで歩き、記念撮影するようなもの。そうこうするうち映画のような一日が終わる。ところが熊野古道では、若い女の子のウエストくらいの太さの名もない杉が、延々、延々。

  それでもう本当にイヤになってしまい、つい、2日目の宿で一緒になったオーストラリアから来たという年配のカップルに、「どうして熊野古道に来たのか」と聞いてみたら、「理由なんかないよ。歩くのが好きなんだ」と言われてしまった。

  もう下りたくないと泣く人あれば、生きるのが好きだと笑う人もいる。
    (盛岡市、書家)


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