盛岡タイムス Web News 2015年  7月 29日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉446 伊藤幸子 「東慶寺」


 十三里帰って琴の師匠なり
              柳亭種彦

 「鎌倉の波と松の音が聞きたくなりましてなと、翫月堂(がんげつどう)主人がこの柏屋に当宿したのが三日前である。そのときから物見遊山は表向き、本音は原稿催促と信次郎には察しがついていた。滑稽本のような気軽な書物は年に一度、新春に版行と相場が決まっている。絵師に彫り師に摺(す)り師たちの手間を入れれば遅くとも夏の終りまでには原稿を書き上げねばならぬ…」

  これは井上ひさしさんの「東慶寺花だより」の一節、先日上京の折、新幹線の往復に読んだもので、鎌倉の四季を背景に江戸時代の離婚の話、15話が盛られている。

  1998年から11年間「オール讀物」に連載され、のちに映画化もされ話題になった。日本橋と鎌倉の間は十三里、約50`。昔は妻を離縁するための「七去(しちきょ)」の条件があったという。一、子を生めない妻、二、淫(みだ)らな妻、三、舅姑(しゅうとしゅうとめ)とうまくいかない妻、四、お喋(しゃべ)りな妻、五、盗癖の妻、六、悋気(りんき)の妻、七、重病の妻、とあるがもちろんすべてというわけではない。

  一方、妻からの離婚申し立ての条件はといえば一、夫が妻に無断で持参金や品物を売りとばしたとき、二、夫の音信不通が3年以上続いたとき、三、夫の家出が明らかで1年たっても帰らぬときは、名主などに相談して離婚できた。

  小説では、駆け込みのご定法は、午後遅く普段着のまま何気ないそぶりで家を出て、町内の角を曲がったらあとは一目散、夜通し駆けて鎌倉を目指す。ようやく到着するのは朝方になる。また追っ手がかかったときは、櫛(くし)であれかんざしであれ、ぞうりであれげたであれ、身につけている物を東慶寺の門内へ投げこめばそれで駆け込み成功ということになる。

  ただし駆け込んだからといってその日から東慶寺のなかで暮らせるわけではなく、ひとまず御用宿に引き取られる。そこで夫方、妻方双方の証人が呼び出され取り調べがされる。いくら調停を重ねても双方折り合わない時は東慶寺に入山、ここでは髪は短く切られ、約3年間外出禁止。著者の解説によれば、江戸時代後期まで約3千人の女性たちが駆け込んだといわれる。明治4年、新政府がこれを禁じた。遠くて近くて哀しい結婚観である。

  さて、寺のそばの御用宿でさまざまな駆け込み風景を見つめる若手戯作(げさく)者中村信次郎の筆は進んでいるだろうか。目を上げると最終の新幹線の窓辺で、遅筆堂のあるじが心配そうに、またひやかし気味に彼の筆運びを眺めていた。
(八幡平市、歌人)



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