盛岡タイムス Web News 2017年  4月 21日 (金)

       

■  〈楽都のユニゾン〉1 加藤和子 鳥取春陽と太田カルテット 盛岡に洋楽の黎明(れいめい)


 今は岩手においても、世界レベルの生演奏に接することができ、また、マスメディア、IT機器を通し、ジャンルを問わず、世界中の音楽を耳にできる時代となっている。しかし、この連載では、現代の手軽さ、便利さはひとまず傍らに置いて、明治・大正・昭和初期にタイムスリップし、岩手の音楽の初発に視点を定めたい。

  岩手の近代音楽の土壌には、奥浄瑠璃の歌い手であり無形文化財となった北峰一之進や、北海道民謡界の重鎮となった今井篁山(こうざん)、邦楽界の名人常磐津林中、三味線演奏家の冨田貞らがいる。日本特有の音律に貢献したこのような人々をまずは踏まえたい。

  そして、明治以降、岩手で最初に洋楽に傾倒し孤軍奮闘したのは円子(まるこ)正だった。円子は明治40(1907)年、東華音楽会を組織する。盛岡の映画史に名を残す円子だが、活動写真(当時の映画)は、実は楽士の給与にも事欠く羽目となった円子が、窮余の策として始めた結果、大当たりしたもの。しかし、その後も、円子は、経営の主体はあくまでも音楽であることを崩さない。大正4(1915)年に、常設の活動写真館である「紀念館」を新築してからは、弦楽器も買い入れ、楽団を東華管弦団と改称している。

  東華音楽会が不遇だった時期に、円子は、たった1本の活動写真のフィルムと楽士たちとともに全国を巡業したが、県内各地も巡っている。全国的に大ヒットした「籠の鳥」の作曲者鳥取春陽が、少年時代に円子正の影響を少なからず受けた可能性は推測に難くない。また太田カルテットの主宰者梅村保と赤沢長五郎のバイオリンの最初の師は円子正であった。

  次回からはシンガーソングライターの先駆けである鳥取春陽と、弦楽四重奏団の先駆けで、中央に盛岡を「音楽都市」とまで言わしめた太田カルテット、この両者に交互にスポットを当てながら、それぞれの業績を書き留めていきたい。



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