盛岡タイムス Web News   2018年   9月  18日 (火)

       

■  アイオン台風70年 山田線沿い決死の復旧 盛岡市の大宮政郎さん 東北配電社員で宮古の被災へ


     
  アイオン台風を回想する大宮さん  
 
アイオン台風を回想する大宮さん
 

 今年は1948(昭和23)年9月のアイオン台風から70年。県内709人の死者行方不明者を出した歴史的天災に、立ち向かった人々がいる。盛岡市緑が丘1丁目の大宮政郎さん(88)は、東北電力の前身の東北配電に勤務し、18歳の新入社員でアイオン台風に遭遇した。上盛岡駅から山田線に乗って宮古方面に向かい、平津戸駅付近と思われる北上山中で、命懸けの復旧にあたった。戦後は美術家として活躍し、米寿になお創意さかん。全国に天災が続く今年、アイオン台風の記憶を聞いた。(鎌田大介)

  台風は48年9月16から17日にかけて県内に集中豪雨をもたらし、宮古市と一関市は壊滅的被害。進駐軍が出動した。一関市は1年前のカサリン台風の痛手も癒えぬうち、被害は大きく上回った。宮古市は昭和三陸大津波に匹敵する惨害。盛岡市でも死者を出した。

  大宮さんは48年県立盛岡工業卒業後、東北配電に入社。測量の腕を買われ、土木担当だった。「電話が不通になり、どうなったか分からない。各発電所や変電所に被害を問い合わせても通じない」。今で言うブラックアウトが起きた。「人数が少なく、発電所が八つ、変電所を合わせて15くらいの施設を持っていた。それが大なり小なり被害を受けた」。

  停電の回復は一刻を争うが、山田線沿線は米内川や閉伊川があふれ、施設にたどり着くのは難しい。「行って様子を見て壊れたところを測量し、流されたところに橋を架け、ダムのコンクリートの被害を直さねば」と、小さな背中に大きな使命を負った。

  山田線の蒸気機関車は徐行、停車し、1日がかりで山中の駅に着いた。それが大志田駅と平津戸駅のどちらか、今となっては定かでない。台風一過のすさまじい山河であった。

  大宮さんは、「大したことのないところもあったし、すっかり橋が流されたところもあった。現場に行けないところも。電話は全く通じない。それでも宮古の手前まで行かねばならない」。被害甚大な宮古を任されたのは、最年少で元気だから。「宮古は汽車が通らなくなった。お前は若いから行って見てきてくれと」。終戦直後の世相で、軍隊式に突入せざるを得なかった。

  「汽車が動かない所まで一日がかりで行き、駅舎の宿泊所で雑魚寝した。何人か宮古に帰る人が乗っていた。様子を見たら一晩泊まってもこれ以上汽車は行かない。どうなっているのだろうか」。深山に立ち往生した。

  「駅の係の人なのか、今は思い出せないが、30代か40代の人が先頭に立ち『様子を見てくるまでここで待っていろ』と言う。ところが何としても帰らなくてはと、盛岡に米を買い出しに来ていた人たちが騒ぎ出した。米袋を背負った人が何人もいて、10人くらい、女の人2、3人も出発した。行けるところまで行こうと」。被災した家族を思う焦りにかられた一行は、荒れ果てた宮古街道へ。

  「どこまで行ったか分からない。橋の少し手前に土砂崩れがあり、もう渡れる状態ではない。山崩れで、とてもここはだめだと。ちょっと戻れば鉄道の橋があるというので、戻った記憶がある。その場所がどこか思い出せない」。無我夢中のうち、最大のピンチが訪れた。

  「線路の鉄橋まで行ったら、橋が宙ぶらりんになっていた。橋の長さは大したことないが30bはあるだろう。橋脚があるだけで、線路がだらり。リーダーも足がすくんでいた」。生きるか死ぬかの綱渡り。「わたしは高校生くらいの年で身軽だったので、行ってみますと」。恐い物知らずの年頃で、われながらよく渡りきったと思う。

  「線路の間に枕木は付いていた。枕木の間は30aか40aの板は敷かれていた。恐かったがひざを付きながら、8割くらい来て、これは何とか渡れる。揺れるが、歩こうと思えば歩けるよと。子どもを背負ってコメの袋を背負った人たちが、必死に渡った。もう、どこの橋かは分からない。その先は川沿いを歩き、水がすごく流れていて、何とか変電所まで着いた」。

  大宮さんは電力の任務に戻り、一行は流れで解散した。宮古を目指した人々の消息は知れない。多くの命をのみ込んだ嵐に崩壊したアイオン沢が、70年後も早池峰から閉伊川に流れ込んでいる。


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